The Beatles(ザ・ビートルズ)の徹底解説まとめ

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The Beatles(ザ・ビートルズ)とは、1962年に英国でデビューした20世紀を代表する4人組ロック・バンド。その影響力は音楽のみならず、ファッション、言動、思想にまで及び、社会現象を巻き起こした。彼等の音楽を語るうえで特筆すべき点の一つは、彼等自身の音楽的成長がそのまま音楽界全体の、そして聴き手である我々ファンの音楽的成長を促したことだろう。1970年の解散後も彼等の影響力は引き継がれ、21世紀の現在でもそれは変わらない。

The Beatlesの概要

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The Beatles(ザ・ビートルズ)は、1962年10月5日「ラヴ・ミー・ドゥ」で本国イギリスでデビュー。1963年1月11日のセカンド・シングル「プリーズ・プリーズ・ミー」がイギリスで大ヒットに。ここからザ・ビートルズの快進撃が始まる。以降、「フロム・ミー・トゥ・ユー」「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」とイギリスでNO.1 ヒットを連発。デビュー・アルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」は1963年5月11日にヒット・チャートの1位に輝くと、以降30週間1位をキープ、12月7日には2位に落ちるが、その時の1位は同じくザ・ビートルズのセカンド・アルバム「ウィズ・ザ・ビートルズ」であり、こちらも以降21週間1位をキープ。この2枚だけで51週間、ほぼ丸1年間1位を独占したことになる。

イギリスを完全に制覇したザ・ビートルズは次にアメリカに進出する。1964年1月、「抱きしめたい」がアメリカのヒット・チャートで1位を獲得。同年2月、ザ・ビートルズはアメリカに上陸、テレビ番組「エド・サリバン・ショー」に出演。アメリカの人口の60%にあたる約7300万人が視聴したといわれている。同年4月4日付のビルボード誌では1位から5位までをザ・ビートルズが独占するという前代未聞の偉業を成し遂げる。

ザ・ビートルズの人気はアメリカ上陸後、全世界に拡大。NO. 1 ヒット・シングルやアルバムの連発、主演映画「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」「ヘルプ!4人はアイドル」の大ヒット、世界各地でのコンサートと熱狂するファンたち、という音楽界に留まらず、社会全体を巻き込んだ一大旋風にまで拡大する。そんな中、過酷なコンサート・ツアーのスケジュールに不満が爆発、1966年8月29日のサンフランシスコ・キャンドルスティック・パークでのコンサートを以て、一切のコンサートを終了する。それにより、多くの時間をスタジオでの音楽作成に費やすことが出来るようになったザ・ビートルズは、「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を始めとする、革新的な作品をリリースしていく。

1967年8月27日、マネージャーであったブライアン・エプスタインが急死する。コンサート・ツアーをやらなくなったことや、各メンバーそれぞれの個人活動が目立つようになり、マネージャーとしての仕事が激減。そのことに悩んだ末の自殺ではないか、とまで言われているが、公式の検死は偶然による事故死とされている。マネージャーを失ったことにより、4人のメンバーをきちんとまとめる人間がいなくなってしまった。ポール・マッカートニーがなんとかザ・ビートルズをまとめあげようとしたが、かえって他のメンバーの反感を買うことになり、ますます4人の絆は稀薄になっていった。ジョン・レノンの新しい恋人、のちに夫人となる小野洋子の存在もそれに拍車をかけることになる。

1969年1月、レコーディングとドキュメンタリー映画の撮影を兼ねた「ゲット・バック・セッション」が始まる。ところがこれが4人のメンバーの不和を増長させてしまうことになり、もはやザ・ビートルズの修復は不可能になっていく。1969年4月、ザ・ビートルズはアルバム「アビー・ロード」のレコーディングに入る。事実上この「アビー・ロード」がザ・ビートルズの最後の作品となってしまった。1970年4月10日、ポール・マッカートニーはイギリス大衆紙「デイリー・ミラー」にザ・ビートルズからの脱退を発表。同年12月30日にザ・ビートルズの解散と、彼等の会社「アップル社」における共同経営関係の解消を求める訴訟を起こす。翌1971年3月12日、裁判所はポールの訴えを認め、ザ・ビートルズの解散が法的に決定されることになる。

活動期間は約8年間と決して長くはない。ところがその間に彼等が成し遂げてきた成果は、音楽だけにとどまらず、ロック・バンドのあり方から、映像、ファッション、思想、文化、と様々なジャンルに影響を与えており、解散から40年以上経過した現在においても、ザ・ビートルズの影は至る所で確認することが出来る。まさに20世紀を代表するロック・バンドであるとともに、とてつもなく大きな出来事であった。

The Beatlesのメンバー

John Lennon (ジョン・レノン)

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生年月日:1940年10月9日
没年月日:1980年12月8日
出生名:John Winston Lennon
出身地:イングランド・マージーサイド州 リヴァプール

ザ・ビートルズのリーダーであり、ポール・マッカートニーと組んだ「レノン=マッカートニー」名義のソングライティングチームで多くのヒット曲、傑作を生みだした。元々彼が1957年に結成した「クオリーメン」が母体となりのちのザ・ビートルズが誕生する。

1962年にシンシア・パウエルと結婚。1963年4月8日には長男・ジュリアン・レノンが生まれている。1966年にはのちの2番目の妻となる日本人アーティスト・小野洋子(以降『ヨーコ』と記す)に出会う。シンシアとは1968年11月に離婚が成立、ヨーコとは1969年3月に再婚している。このヨーコの存在がザ・ビートルズの解散の一因として取りざたされることが多い。

1970年、ザ・ビートルズの実質的な解散(法的な解散は1971年3月12日)以降は、ヨーコとともに平和運動への参加やパフォーマンス、前衛的な作品や政治的な作品のリリースを行ってきた。1973年からジョンは一時ヨーコと別居、いわゆる「失われた週末」を迎えるが、1975年1月には「僕たちの離婚は失敗した」の言葉とともに、再びヨーコと生活を共にするようになる。そして1975年10月9日、ジョンと同じ誕生日に長男「ショーン・レノン」が誕生。音楽活動など全ての公的活動を辞め、「主夫」に専念することになる。

1980年、ジョンは再びスタジオに戻り、ヨーコと共にレコーディングを再開する。そして同年11月にはジョンとヨーコの二人の名義による実に5年振りのアルバム「ダブル・ファンタジー」がリリースされ、多くのファンを狂喜させる。1980年12月8日22時50分、スタジオ作業からタクシーでアパート前に戻ったジョンとヨーコを待ち伏せしていた男がいた。その男、マーク・チャップマンは暗闇から「レノン?」と呼びかけると、ジョンに向かって拳銃を5発発射。うち4発がジョンの胸、背中、腕に命中。ジョンは「I'm shot!(撃たれた!)」と2度叫んだあと、アパート入口に数歩進んだところで倒れた。警官がジョンの元に到着した時には、ジョンにはまだかすかに意識はあった。病院に向かう途中、警官からの呼びかけに「俺はジョン・レノンだ。背中が痛い」とかすかに述べたが、声は次第に弱まっていった。病院到着後、医師は心臓マッサージと輸血を行うが、失血性ショックにより、23時過ぎには死亡が告げられた。享年40歳。

彼の死は大きなニュースになり、全世界の多くのファンを悲嘆に暮れさせた。死の直前にリリースされたアルバム「ダブル・ファンタジー」はヒットチャートの1位となり、彼の死後も、多くの関連作品がリリースされた。彼はもうこの世には存在しないが、彼の作品、彼の歌声は常にそこにあり、今でも多くの人々に愛されている。それは遠く離れたアジアの片隅の小さな島国である、日本……ヨーコの故郷でジョンも何回かお忍びで訪れている……でも状況は変わらない。

Paul McCartney (ポール・マッカートニー)

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生年月日:1942年6月18日
出生名:James Paul McCartney
出身地:イングランド・マージーサイド州 リヴァプール

ザ・ビートルズの左利きのベーシストであり、ギネス世界記録に「ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家」として掲載されている不世出のメロディメイカー。「レノン=マッカートニー」名義でザ・ビートルズとしても、また解散後に組んだバンド「ウィングス」やソロとしてもヒット曲を量産している。

1969年に恋人のリンダ・イーストマンと結婚。リンダはポールが解散後に組んだ「ウィングス」のキードーディストとしても活躍、公私に渡りポールをサポートしてきたが、1998年に癌のため死去。享年56歳だった。ポールは2002年にヘザー・スミスと再婚するも2006年には別居、そして総額47億円の慰謝料を支払い離婚。その後、2011年にナンシー・シェベルと再再婚している。

ザ・ビートルズ解散前後から、4人の関係は修復不可能にまで至っており、ジョンはヨーコと活動を共にし、ジョージも何かと命令してくるポールを疎ましく思うようになってきていた。ザ・ビートルズからの脱退を表明したのは、実はジョン・レノンの方が早かったのだが、公式に発表したのはポールが最初であった。ジョンはそのことでポールを批判しているが、いずれにしてもザ・ビートルズの解散は時間の問題であった。ただし、このポールの脱退表明は、イギリスの大衆紙「デイリー・ミラー」がすっぱ抜いたものであり、ポールの本意ではなかった。

ザ・ビートルズ解散後は、ソロ、妻のリンダとの連名によるアルバム、新たに組んだバンド「ウィングス」での活動、そして再びソロと常に音楽的活動を行ってきている。1975年に来日公演が組まれたが、法務省が過去の薬物所持の前科を理由にビザを無効にしたため、中止になっている。1980年1月には来日公演のために日本を訪れようとしたが、成田空港で大麻を所持していることが発覚、その場で日本の警察に逮捕されるという事件を起こしている。当然日本公演は中止になり、ポールは入国管理局のブラック・リストに載せられてしまう。しかし、日本のビートルズのファンクラブである「ビートルズ・シネ・クラブ」の署名運動や、ポールの世界的文化貢献が考慮され、法務省が日本入国の特別許可を下し、1990年にザ・ビートルズでの来日以来24年ぶりとなる来日公演が実現した。その後も1993年11月、2002年11月、2013年11月と来日、2014年5月の来日公演は急病のため全公演中止となったが、翌2015年4月にはリベンジ公演を行い、2017年に4月にも通算6度目の来日公演を行っている。

さすがに全盛期のように大ヒット曲を連発するようなことはなくなってしまったが、彼の紡ぎだすメロディは、多くの人々の心を打ち続けている。相棒であるジョンや、弟分のジョージを失った彼の悲しみは計り知れないが、今でもザ・ビートルズ時代のヒット曲をオリジナルのキーのままで歌いこなすなど、精力的にコンサート活動を続けている。20世紀を代表する、いやそれどころか音楽史に偉大な足跡を残す作曲家であることに疑問の余地はない。

George Harrison (ジョージ・ハリスン)

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生年月日:1943年2月25日
没年月日:2001年11月29日
出身地:イングランド・マージーサイド州 リヴァプール

ザ・ビートルズの最年少メンバーであり、主にリード・ギターを担当していた「静かなビートルズ」。ローリング・ストーン誌が選ぶ「歴史上最も偉大なギタリスト」の2011年改訂版では11位に選ばれている。「レノン=マッカートニー」の影に隠れているが、多くの名曲を残している。

1966年にモデルのパティ・ボイドと結婚。ジョージは「妻は家にいるべき」という考えの持ち主だったため、パティはそのことに不満を持つ。また、ザ・ローリング・ストーンズのギタリスト、ロン・ウッドとの浮気などが原因で、1974年に離婚している。その後パティはジョージの親友であるエリック・クラプトンと1979年に結婚。ジョージも1978年にオリヴィア・トリニアード・アリアスと再婚している。

ザ・ビートルズには「レノン=マッカートニー」という大きな存在があったため、なかなか自分の楽曲が発表できず、また最年少ということでジョンやポールからは下に見られることがあり、不満も鬱積することが多かった。解散直前を記録した映画「レット・イット・ビー」の中ではポールと口論する場面など、あまりファンが観たくはない場面も出てくる。そんな鬱憤もあったためか、あるいは彼の人柄の良さのためか、メンバーの中では外部のミュージシャンとの交流が最も多く、エリック・クラプトンやビリー・プレストンをザ・ビートルズに紹介したのもジョージであった。

ザ。ビートルズ解散後、まず成功を収めたのはジョージであった。3枚組大作「オール・シングス・マスト・パス」をリリース、シングルの「マイ・スィート・ロード」と共に大ヒットを記録。またバングラデュの飢餓に心を痛め、自ら支援のためのコンサートを開いており、これがのちのチャリティコンサートのはしりとも言われている。1974年には自らのレーベル「ダークホース」を設立。1988年には「セット・オン・ユー」で久し振りのNO.1 ヒットを記録。ボブ・ディランたちと組んだ「トラヴェリング・ウィルベリーズ」も話題を呼んだ。1991年にはエリック・クラプトンとのジョイントで来日公演も行うなど、常に話題を振りまいてきたが、1998年には喉頭癌が見つかり、手術を受けている。また1999年には自宅に侵入した変質者にナイフで襲われ、瀕死の重傷を負う。2001年には肺癌、また脳腫瘍も併発していることが発覚。フランスで放射線治療を受けていたが、2001年11月29日、帰らぬ人となってしまった。享年58歳。

ザ・ビートルズのソングライターというと、どうしても「レノン=マッカートニー」が浮かんできてしまうが、ジョージにも「サムシング」「ヒア・カムズ・ザ・サン」「恋をするなら」などといった極上の名曲が存在している。また「タックスマン」や「ピッギーズ」「アイ・ミー・マイン」などで見せた皮肉屋な部分も魅力の一つとなっている。人柄の良さにも定評があったように、彼がいなければ、やはりザ・ビートルズの存在はなかったのではないだろうか。

Ringo Starr (リンゴ・スター)

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生年月日:1940年7月7日
出生名 :Richard Starkey Jr.
出身地:イングランド・マージーサイド州 リヴァプール

ザ・ビートルズの最年長メンバー。ローリング・ストーン誌が選ぶ「歴史上最も偉大な100人のドラマー」では12位に選ばれている。そのホノボノとした人柄は、多くのファンに愛されており、「一番好きなメンバーには選ばれないけど、二番目に好きなメンバーとしては一番に選ばれる自信があるよ」と本人も語っている。

1965年にモーリン・コックスと結婚。同年9月13日には長男ザックが誕生している。アルバム「レット・イット・ビー」収録の「ゲット・バック」の演奏終了後にポールが「サンクス・モー」と言っているが、これは一番拍手をしてくれたモーリンに対する感謝の意である。モーリンとは1976年に離婚、1981年に映画「おかしなおかしな石器人」で共演した女優のバーバラ・バックと再婚している。

ポールと一緒で彼も左利きだが、ドラム・キットは通常のセッティングで使用している。ザ・ビートルズ時代には自作曲は殆ど発表しておらず(単独では「ドント・パス・ミー・バイ」と「オクトパス・ガーデン」のみ)、またドラム・ソロも嫌いということで、最後のアルバム「アビー・ロード」で初めて短めのソロを披露している。ドラマーとしての腕前は、例えば「レイン」や「ア・ディ・イン・ザ・ライフ」といった楽曲を聴けば、タイム感やセンスの良さに舌を巻くことだろう。ヴォーカリストとしても、温もりや優しさを感じさせてくれるハート・ウォーミングな歌声を披露してくれる。

ザ・ビートルズ解散直前の1970年にリンゴはスタンダード・ナンバーを集めたアルバム「センチメンタル・ジャーニー」を、同年12月にはカントリー・ソングを集めた「カントリー・アルバム」もリリースしているが、本格的なソロ作としては、やはり1973年の「リンゴ」であろう。解散後にジョン、ポール、ジョージの3人が参加した初のアルバムであり(ただし三人が一緒にプレイしている楽曲はない)リンゴの愛すべき人柄を象徴している出来事でもあった。「想い出のフォトグラフ」「ユア・シックスティーン」「オンリー・ユー」「ラック・マイ・ブレイン」など何曲かヒットを飛ばしたものの、その後しばらくは音楽活動が停滞してしまうが、1989年には「リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンド」を結成。パーマネントなメンバーではなく、その都度名だたるアーティストを集めてツアーを行う、といったまさにオール・スター・バンドであった。1989年にはこのオール・スター・バンドで来日公演が実現、以降1995年、2013年、2016年と来日している。

1980年後半には重度のアルコール依存症に悩まさることもあったが、更生施設での治療を経て克服。大ヒットには恵まれてはいないけれど、常に安定した作品を提供し続けている。ザ・ビートルズの主演映画「ヘルプ!4人はアイドル」では主役を演じるなど、俳優としての活動も経験している。それに何といってもザ・ビートルズの音楽を最初から最後まで支えてきたドラマーとしての存在感はとてつもなく大きく、もっと評価されて然るべき存在であろう。

The Beatlesの元メンバー

Stuart Sutcliffe (スチュアート・サトクリフ)

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生年月日:1940年6月23日
没年月日:1962年4月10日
出生名:Stuart Fergusson Victor Sutcliffe
出身地:スコットランド・エディンバラ

ザ・ビートルズのデビュー前のベーシスト。1960年1月、ザ・ビートルズに参加、1960年8月から行われたドイツ・ハンブルク公演に同行している。そのドイツで写真家アストリット・キルヒヘルと知り合い、意気投合した二人は婚約を交わす。1961年4月に二度目のハンブルク公演を行うが、演奏力不足を理由に公演後にザ・ビートルズを脱退。画家の道に進むことを決意している。
ザ・ビートルズを脱退したサトクリフは、アストリットと同居、ハンブルク州芸術大学に編入するが、1961年の夏ごろから頭痛などの体調不良を訴え始める。
1962年4月10日、容態が急変、救急車で病院に搬送される途中に脳出血により死去した。享年22歳。奇しくもザ・ビートルズが三度目のハンブルク公演をするためにドイツに到着する前日であった。
ザ・ビートルズのメンバーはドイツに到着した空港内でアストリットからサトクリフの急逝を知らされる。ジョン・レノンとは特に仲が良く、ジョンは後年「サトクリフはもう一人の自分のような存在だった」と語っており、アストリットから渡されたサトクリフの遺品のマフラーを生涯手放すことはなかった。

Pete Best (ピート・ベスト)

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生年月日:1941年11月24日
出生名:Randolph Peter Best
出身地:イングランド・マージーサイド州 リヴァプール

ザ・ビートルズにデビュー直前まで在籍していたドラマー。1960年8月、ザ・ビートルズがハンブルク公演を行う際にドラマーが必要となったため、ピートが加入。ブライアン・エプスタインがマネージャーに就任、EMIとレコーディング・テストの約束を結び、1962年6月6日、EMIスタジオでレコーディング・テストを行った際にもザ・ビートルズのドラマーは彼であった。ところがその数か月後の8月16日、ピートは突然の解雇を言い渡される。解雇理由には色々な説があるが、ドラマーとしての技量不足、性格の問題、すでに顔見知りであったリンゴ・スターの存在、などがあげられる。
彼の解雇は彼にとっても、残りのメンバーにとっても、あまり後味の良いものではなかったが、1998年にリヴァプールのカフェで、ジョージとの再会が実現。和気藹々とした雰囲気の中で会話が弾んだという。
その後、彼はピート・ベスト・バンドや、ザ・ビートルズ・トリビュート・バンドを結成、来日公演を行ったりもしている。1995年11月22日にリリースされた「ザ・ビートルズ・アンソロジー」には彼がドラムスをプレイしている楽曲が収録されている

The Beatlesの関係者

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