KAN(木村和)とは【徹底解説まとめ】

「KAN(カン)」とは日本のシンガーソングライターである。本名は木村和(きむらかん)。ピアノを弾いて歌うスタイルのミュージシャンである。1987年にシングル『テレビの中に』でデビューした。1990年に発表した『愛は勝つ』が大ヒットし、200万枚を超えるCD売上を記録。その後も『言えずのI LOVE YOU』『まゆみ』といったヒット曲がある。オリジナルアルバムは17枚を発表している。2023年3月にメッケル憩室癌を患っていることを発表したが、同年11月12日闘病の甲斐なく病没した。

KANの概要

「KAN(かん)」とは日本の音楽家であり、シンガーソングライターである。本名は「木村和」と書いて「きむらかん」と読む。
1962年9月24日生まれ、2023年11月12日没。享年61歳。既婚者であり、妻はバイオリニストの早稲田桜子(わせださくらこ)。子供はいなかったようである。

1987年にシングル、アルバムの『テレビの中に』でデビュー。1990年に発表した5枚目のアルバム『野球選手が夢だった』に収録されていた『愛は勝つ』が、TV番組『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』のエンディング曲に採用されたことをきっかけに爆発的なヒットとなる。
『愛は勝つ』は200万枚を超えるセールスを記録し、1991年には日本レコード大賞ポップス・ロック部門で大賞を受賞。また日本歌謡大賞では放送音楽プロデューサー連盟賞を受賞した。同年の『第42回NHK紅白歌合戦』では「モーツァルト没後200周年」という記念の年だった為、モーツァルトを思わせるかつらや衣装で出場し、笑いを誘った。
その後は『愛は勝つ』を超える爆発的なヒット曲には恵まれなかったため、「一発屋」の評判を立てられることもあった。しかしその後も常に質の高いアルバムを発表し続け、ライブ活動も精力的に行っていたため、ファンは着実に増え続けていった。

ピアノを弾きながら歌うスタイルを主とし、洋楽のアーティストであるビリー・ジョエルに大きな影響を受けたと自身のホームページで語っている。他にもビートルズ(特にポール・マッカートニー)、マイケル・ジャクソン、スティーヴィー・ワンダーなどのファンで、彼らのような曲調を思わせるような作品も多い。しかしコピーやパクりといったものではなく、一旦彼らの楽曲を分解し、そのエッセンスを取り出した上で再構築するという手法を取っている。そのためリスナーは一瞬「あれ、どっかで聴いたことがあるような?」と思うか思わないかのところで、KANの楽曲の良さに引き込まれてゆく。しかししばしば全く同じフレーズを確信犯的に散りばめることで、各々のミュージシャンに対するリスペクトを表している。

ラジオDJとしての顔も持ち、北海道のSTVラジオ、大阪のFM802、FMCOCOLOなどでレギュラー番組を担当していた。

また他のアーティストとの交流にも積極的で、Mr.Childrenが主催する「ap bank fes」には様々なコスプレで登場した。またスターダスト☆レビュー(以下スタレビ)、スキマスイッチ、秦基博(はたもとひろ)と行ったイベント「星屑の隙間に木村基博」では音楽監督の役割を果たしていた。
これまで今井美樹(いまいみき)、松本伊代(まつもといよ)、薬師丸ひろ子(やくしまるひろこ)、SMAP、後藤真希(ごとうまき)、平井堅(ひらいけん)、真野恵里菜(まのえりな)、つるの剛士(つるのたけし)、森高千里(もりたかちさと)らに楽曲を提供している。

2023年3月に自身のホームページでメッケル憩室癌を患っていることを公表した。手術や治療のためライブ活動は休止となったが、ラジオ放送だけは体調の許す限り続けていた。しかし2023年11月12日、闘病の甲斐なく病没している。

KANの活動経歴

デビューから『愛は勝つ』まで

1981年に法政大学社会学部に合格し、上京する。上京して1週間後に日本武道館で行われたビリー・ジョエルのコンサートを見て、音楽家になる夢を確かなものにした。
1983年にはアマチュアバンドに加入し、オリジナル曲を作成するようになる。デビューを目指して様々なコンテストに出場したが、どれも優秀賞や奨励賞と行ったパッとしない結果であった。

しかし音楽活動を続けていくうち、デモテープがレコード会社のディレクターの目に止まり、デビューへの道が見えてくる。

そして1年留年した大学卒業後、1986年にライトリンクスコーポレーション(1988年にアップフロントエージェンシーに吸収合併)とミュージシャンとして契約した。
プロとしての初めての仕事は、大林宣彦監督の映画『日本殉情伝 おかしなふたり ものくるほしきひとびとの群』のサウンドトラックを作ることであった。大林監督とは後にもサントラの仕事や、KANのMVの撮影でも一緒に作品を作っている。

同時にレコードデビューの準備も進んでおり、ディレクターから「1週間に1曲作って持ってきて」と言われたKANは、1週間に倍の2曲を作って持って行っていた。そして1987年4月25日、ポリドールより『テレビの中に』のシングル・アルバム同時発売でレコード・デビューした。

しかし大きなヒットにはならず、本人曰く「Jポップ界の盲点に君臨」していた状態がしばらく続いた。それでも1989年までの2年間にアルバム4枚、シングル5枚をリリースしていた。歌詞を書くことが苦手で、デビューアルバムの『テレビの中に』では10曲のうち3曲だけしか書いていなかったが、ライブで歌っていると自分の言葉ではない歌詞を歌うことに次第に違和感を感じるようになっていった。次第に自分の言葉で歌詞を書くようになり、4枚目のアルバム『HAPPY TITLE -幸福選手権-』以降は全曲歌詞を手掛けるようになり、独特の世界観も評価されるようになる。
『東京ライフ』や『REGRETS』など、良質なポップスを作るシンガーソングライターとして次第に認められつつあった。

また1988年からは札幌STVラジオで『アタックヤング』、89年からは大阪FM802で『ミュージックガンボ』のパーソナリティを務めはじめ、ラジオの魅力を知るようになる。この頃からラジオで『REGRETS』や『健全 安全 好青年』がヘビーローテーションされるようになっていた。

『愛は勝つ』の大ヒット

1990年7月25日に5枚目のアルバム『野球選手が夢だった』をリリースする。『愛は勝つ』は単にそのアルバムの1曲目の曲に過ぎなかったが、FM802でヘビーローテーションされたことをきっかけに、次第に認知度が上がっていった。人気が出てきたこともあり1990年9月1日にシングルCDとしてリリースされる。
そしてフジテレビ系バラエティ番組『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』の挿入歌に採用され、本人も準レギュラーとして番組に出演するようになる。楽曲『愛は勝つ』の人気も大ヒットと呼ばれるものとなり、オリコンセールス8週連続1位、CDセールス200万枚以上を記録した。
1991年の「第22回日本歌謡大賞」では放送音楽プロデューサー連盟賞、そして第33回日本レコード大賞を同時に受賞することとなる。

1990年には初めての全国ツアーKAN CONCERT TOUR 90【野球選手が夢だった】が行われた。1991年には6thアルバム『ゆっくり風呂につかりたい』をリリースし、コンサートツアー【かあさんはわかっていたんだよ。】で全国を回った。この頃から音楽コントや、演奏に全く関係のない寸劇が盛り込まれたコンサートが行われるようになっていった。

毎年アルバムを出し、全国ツアーを回る日々

1992年にはコンサートツアー【先生、おら先生みたいな先生になる】、そして1993年には7thアルバム『TOKYOMAN』を発表、本格的にダンスが取り入れられたコンサートツアー【はやくよくなってね】を行った。
『TOKYOMAN』からシングルカットされた『まゆみ』は三ツ矢サイダーのCMイメージ・ソングに採用され、KANの音楽性の高さを世の中に思い出させた。

1993年12月には8thアルバム『弱い男の固い意志』を発表、翌1994年にはコンサートツアー【WORLD WIDE GLOBAL SHOW】を行った。このコンサートから、後のKANのライブでは定番となる、終盤の「全曲つなげ」が行われるようになった。

1994年11月には9thアルバム『東雲』を発表、翌1995年にコンサートツアー【LA TOUR DOMESTICA DELLA LUCE】を行う。

1996年には10thアルバム『MAN』を発表、コンサートツアー【LA TOUR DOMESTICA DEL'ESTATE DAL DICIOTTO MAGGIO AL TREDICI LUGIO】を行う。

1997年には初めてギャグなしのコンサートツアー【LA TOUR DOMESTICA DEL DECIMO ANNIVERSARIO DAL TREDICI SETTEMBRE PASSANDO IL MIO COMPLEANNO AL OTTO NOVEMBRE】を行う。この時共演したバイオリニストの早稲田桜子と1999年に結婚した。

1998年には11thアルバム『Tigersongwriter』をリリースし、コンサートツアー【LIONFLOORLADY】を行った。このコンサートがKANの音楽ギャグエンターテインメントショー史上、最も納得度の高い作品となった。
1998年10月にはオールスタンディングのライブハウスツアー【23NIGHTS】も行われた。この年行ったロシア旅行に大きく影響を受けた12thアルバム『KREMLINMAN』を翌1999年に発表した。
1999年のコンサートツアー【KREKLEMAN】ではKANの結婚を受け、バンドメンバーもウェディングドレスを着て演奏した。年末にはライブハウスツアー【1999-2000】も行われた。

この頃から年に1枚のペースでアルバムを出し、コンサートツアーを行うというペースに限界を感じ始める。「このペースでやっていくと音楽の仕事を長く続けられないのではないか」という不安にかられるようになった。ラジオの仕事をしていて他のミュージシャンのサンプルCDをもらっても、聞く気になれなくなったことが、「一旦休もう」という大きな要因になったという。

2001年には4年ぶりのノーギャグコンサートツアー【2001年宇宙の家】を行った。13thアルバム『Gleam & Squeeze』をリリースし、秋にはライブハウスツアー【Rock'n Roll 39】を行っている。

2年間のパリ生活

2001年にアルバム『Gleam & Squeeze』を発表したあと、2002年2月にフランス・パリへ移住する。日本での音楽活動はすべて休止することとなった。
パリでは最初は語学学校に通っていたが、語学の上達に限界を感じるようになる。語学よりピアノを習うべきなのではと思い直し、フランスの音楽学校「エコール・ノルマル・ドゥ・ミュジーク・ドゥ・パリ」のピアノ科(ノン・プロフェッショネル)に中途入学をした。音楽学校ではクラシックピアノの基礎を、中学校以来しっかりと学ぶ日々が続いた。
そんな中レッスンの合間に、他の生徒らの前で「日本のプロのミュージシャン」として演奏する機会があった。しかし15年以上のキャリアがあるプロのミュージシャンにも関わらず、自分1人で自信を持ってピアノで演奏できる曲がないことに気づいた経験が、後に弾き語りのライブをすることに結びつく。
およそ2年間の学生生活を送り、2004年6月に卒業した。翌月7月に日本に帰国する。

帰国後から

2004年7月20日に帰国。その秋から早くもSTVラジオでのレギュラー番組『KANのロックボンソワ』がスタートしている。
12月には大阪城ホールで開催された「Act Against AIDS」のイベントに1人で参加。自身の曲2曲と、aikoと一緒にaikoの名曲『カブトムシ』を演奏した。
フランス滞在中から感じていた「15年のキャリアがあるのに1人では何もできないのはマズい」という不安を払拭するため、2005年3月から単身での弾き語りコンサート「弾き語りばったり」を始める。

2005年の【弾き語りばったり#1】は札幌、東京、大阪の4公演のみだったが、同年6月〜7月に行われた「弾き語りばったり#2〜8都市て!good〜」ではタイトル通り全国8都市を回った。さらに2006年1月〜2月に行われた「弾き語りばったり#3〜新春シャンションショー(×3)〜」では11都市、14公演が行われた。
2006年2月には帰国後初のシングルとなる『カレーライス』を発表し、同年8月には5年ぶりの14thアルバム『遥かなるまわり道の向こうで』をリリースした。
秋には6年ぶりのバンドライブツアーも【Rock on the Chair 座ってポン!】として再開している。

この年から1年のうちに弾き語りばったりとバンドライブツアーを交互に行うようになり、そのペースは2023年まで続いた。

2007年には【弾き語りばったり#5 〜スプリングハニカム〜】、2008年にはバンドライブツアー【NO IDEA】と【弾き語りばったり#7 〜ウルトラタブン〜】、
2009年にはバンドライブツアー【じゃぁ、スイスの首都は?】、【弾き語りばったり#11 ~言った、言わない~】が行われた。
弾き語りばったりの数字は1、2、3の次が5、7、11となっている。これはKANが好きな素数にちなんだ数字となっており、実際には4回目の開催だが#5と表記された。
また弾き語りのスタイルを始めることで身軽になったことから、Mr.Childrenが主催する「ap bank fes」や中国の上海で行われたイベントを始め、国内外のイベントに積極的に出演するようになった。

2010年2月にはシングル『よければ一緒に』を、3月には15thアルバム『カンチガイもハナハダしい私の人生』をリリースしている。
また芸能生活23周年記念して行われた逆特別バンドライブツアー【ルックスだけでひっぱって】では、親交の深いミュージシャンたち(桜井和寿、aiko、山崎まさよし、平井堅、根本要、ASKA)を各会場のゲストに招き、芸能生活23周年を祝う盛大なライブとなった。

同じく2010年からは「SSK」(杉山清貴、スタレビ、KANからなるユニット)や「星屑の隙間に木村基博」(スタレビ、スキマスイッチ、KAN、秦基博の頭文字を取ったイベント、略してホスキモ)。KAN、スタレビ、馬場俊英がホストを務め、多彩なゲストが参加する「風のハミング」など、KANを音楽監督とした各種イベントが行われるようになる。毎回音楽的にハードルの高い目標を掲げ、笑いあり感動ありな演奏をするために練習を重ねることから、参加者からはめんどくさがれることもある。しかしKANの熱心な説得とミュージシャンとしてのプライド、「やれたらすごいぞ」という達成感を求めて、最後には全員参加するようである。

突然の最期

2011年には【弾き語りばったり#13 〜Moonlight Sirinade〜】で全国24公演が行われた。

2012年には弾き語りに弦楽カルテットとオーボエを加えた、よりクラシカルなコンサートにも挑戦している。

2012年はバンドライブツアー【ある意味・逆に・ある反面】、【弾き語りばったり#17 もしもヒアノがぴけたなら】、2014年にはバンドライブツアー【Think Your Cool Kick Yell Come On!(新曲聴けるかも)】、【弾き語りばったり#19今ここでエンジンさえ掛かれば】が行われた。

2016年には53歳になったことを記念した16thアルバム『6✕9=53』をリリースする。レコーディングには根本要(スタレビ)、佐藤竹善 (SING LIKE TALKING)、ジャズピアニスト塩谷哲、シンガーソングライターの馬場俊英、バンドでコーラスを担当する菅原龍平、ロックバンドTRICERATOPSが参加した。また収録された『安息』の歌詞は桜井和寿が担当し、こちらのアルバムも豪華な内容となっている。バンドライブツアー【ロック☆ご自由に♪】も行われ、また同年【弾き語りばったり#29 責任者はテクニシャン】で全国34公演を行っている。

2017年には弾き語りと弦楽カルテットによるセルフカバーアルバム『la RiNASCENTE』をリリースし、弦楽カルテットライブツアー【Concerto col Quartetto da Muroia2017】が行われた。ライブタイトルの意味は「室屋カルテットとのコンサート」である。
同じく2017年にはバンドライブツアー【恋するチンクワンタチンクエ】と【弾き語りばったり#23 三歩進んで何故戻る?】が行われている。

2018年2枚目のセルフカバーアルバム『la RiSCOPERTA』をリリース、2度めの弦楽カルテットライブツアー【Concerto col Quartetto da Muroia 2018】、2019年にはバンドライブツアー【クイズ・新曲は誰だ!?】が行われたが、2020年は新型コロナウィルスの自粛でライブは行われていない。

2020年に遺作となる17枚目のアルバム『23歳』をリリース。自身のオリジナル曲に加え、秦基博との共作「カサナルキセキ」のKANパートである「キセキ」や、2019年に亡くなった友人ヨースケ@HOMEとの共作「コタツ」、泣ける切ないラブソング「エキストラ」などが収録されている。

コロナウイルスの勢いがやや収まった2021年1月から【弾き語りばったり#30 First Class Distance】でライブ活動を再開、同じく2021年から2022年にかけて【弾き語りばったり#31+ 小さい土器みつけた】が行われた。
また「風のハミング」など自身が音楽監督を務めるイベントも毎年恒例となっていった。

2022年から2023年にかけて最後のバンドライブツアー【25歳】を全国8都市、9公演を行った。

バンドライブツアー【25歳】が2023年3月7日に終了したあと、3月18日に自身のホームページにて「洒落にならないご報告」を掲載した。
その中でメッケル憩室癌を発病したことを発表し、療養のため2023年4月から予定されていた弦カルテットのツアーを中止とした。

ラジオの仕事だけはリモートや収録なども工夫しながら継続していた。X(旧Twitter)も頻繁に投稿され、10月にはパリへの旅行も投稿されていた。しかし11月7日に「ビートルズの新曲を聴いた」という投稿を最後に更新はされず、11月17日に「12日に死去していた」という報道が発表された。

KANのプロフィール・人物像

1962年9月24日、福岡市に生まれる。
父親の木村満(きむらみつる)は福岡県にある放送局、RKB毎日放送にプロデューサーとして勤務する一方で学校の校歌の作曲や、博多どんたくで使う音楽の編曲などの依頼を受けるなど、音楽家としての一面もある人物であった。また福岡で高校教師をしていた木村索(きむらさく)という兄が1人いる。
KANの自宅は福岡の団地だったがグランドピアノが2台、エレクトーンも設置されていた。両親は2人の息子含め、音楽一家を目指していたと思われる。
その期待に応え、KANも小学校入学前にヤマハ音楽教室に通い、小学校入学と同時にクラシックピアノを本格的に学び始める。週1回のレッスンと毎日3時間の練習をしていたそうである。同時期に友人に誘われ、キリスト教会で賛美歌を歌うようになった。それでもインドアな少年時代というわけではなく、小学4年生になると少年野球のチームに入団し、6年生になると2番ショートでレギュラーを獲得していた。

1975年に中学に入ると、すでに解散してはいたものの絶大な人気を維持していたビートルズの音楽に触れる。家にあったクラシックギターで耳コピを繰り返す日々を送った。中学2年の冬には念願のエレキギターを手に入れ、友人たちと「The Meatles(ザ・ミートルズ)」というバンドを結成し、ビートルズの楽曲60曲を自宅でレコーディングする。一方で中学2年の秋には7年半続けたピアノのレッスンを、高校受験のためという名目でやめてしまっていた。
一時期ブラスバンド部にも所属し、アルトサックスの練習もしていたそうである。

1978年に高校に入学すると、入部した水泳部の同級生から借りた『52st street(ニューヨーク52番街)』というレコードでビリー・ジョエルと出会う。早速コピーに挑戦するもビートルズより複雑なフレーズやコードに苦戦し、しぶしぶ楽譜を買ったと本人が語っている。
この頃からピアノでロックンロールを演奏することに目覚めはじめ、オリジナル曲も作るようになった。
テレビで見たポール・マッカートニー率いるバンド「Wings(ウィングス)」のライブに衝撃を受け、自らもミュージシャンを目指すようになる。

1981年に法政大学社会学部に合格し、上京する。自分のピアノを手に入れるためにアルバイトに明け暮れ、大学にはほとんど行くことがなかった。当時のアルバイト先で触れた音楽、特にディスコ「玉椿」で聴いた80年代の洋楽が、KANの音楽の1つの原点となっている。

周囲の人間から「常にふざけている」と言われるほどの人物で、よくギャグやボケることが多い。そのボケも相手が大爆笑するようなものではなく、どちらかと言うと相手が困惑して苦笑いするようなことを、ニコニコしながら言う。

なにかにつけてダジャレを口にする人物で、オフィシャルサイトでは「よろしくお願い四万十川」「ほな、サイババ」「では、股」など定番となっている表現も多い。
楽曲にもダジャレを使うケースもある。小田和正の音楽番組『クリスマスの約束』に出演した時に「愛は勝つ」のさわりを演奏したのだが、「願いをたくし上げ」「僕らはやっとこさ」と素知らぬ顔で歌い上げた。
「サンクト・ペテルブルグ〜ダジャレ男の悲しきひとり旅〜」という曲では「途方に暮れてしマウンテンバイク」「たくさんたくさんアンデス山脈」など歌詞にもダジャレが使用されている。

普段のKANの服装はいわゆるアイビールックと呼ばれる、ネイビーのブレザーにボタンダウンシャツにレジメンタルタイ、そしてチノパンにローファーというきちんとした格好をしている。
しかし車の中には殿様や町娘のカツラを常備しており、知り合いを見かけると何食わぬ顔をしてカツラを被り、相手を脱力させることがしばしばあった。

1つの物を大事に長く使う事が多く、車は1992年に購入した高級北欧車を30年以上乗り続けていた。スマートフォンも持たず、連絡は長年愛用しているdocomoの携帯電話を使用している。
ライブステージで小道具として使っている弦を張っていないエレキギターは、KANが中学2年生の時に2万円で購入したものである。

酒好きで、ミュージシャン仲間とミーティングという名目での飲み会によく参加していた。シャンパンを好んで飲み、シャンパン以外のお酒を飲むとアレルギーが出る体質だと根本要らに語っていた。

KANのディスコグラフィー

シングル

『テレビの中に』

1987年4月25日発売。

収録曲
1. テレビの中に
2. セルロイドシティも日が暮れて

KANのデビューシングルである。テレビの中にいるアイドルに会うために、芸能界を目指す男の姿がコミカルに描かれている。
ちなみにこのアイドルとは小泉今日子のことであった。

『BRACKET』

katushi_nawataa3
katushi_nawataa3
@katushi_nawataa3

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