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19580113-mhのレビュー・評価・感想

ゴジラ(1954年の映画) / Godzilla (1954 film)
9

記念すべきゴジラ映画の1作目の作品

この映画の存在感は、何事かと思うほどのインパクトがありますね。

タイトルの最初ゴジラの重苦しい足跡が響いただけで、心の中に禍々しい災厄の予感を持ってしまいます。

続いてゴジラの咆哮を耳にしただけで、もう破壊と殲滅から逃れ得ないと覚悟してしまう程のリアリティーがあるんですね。

この映画の凄いところは、その圧倒的なリアリティーにあると思います。

俳優で言えば、志村喬の説得力に多くを負っていると感じましたが、この俳優の凄いのは、明らかなフィクション世界を、その佇まい1つで、現実世界に書き換えてしまうところにあるんですね。

しかし、それ以上に、この映画でリアリティーを生んでいるのは、全体に染み込んだ時代感にあるのではないかと思います。

これが撮影された1954年は、第二次世界大戦が終わって、10年を経ていない。
つまり、この映画の、ゴジラという破壊の化身に、右往左往する人々の姿は、そのまま、10年前の現実世界だったのだ。

映画には間違いなく時代感覚が、映り込むことがあるものです。
そして、しばしば傑作とは、監督の意図した事と、映り込んだ時代感がマッチした時に生まれるのだと思います。

この初代ゴジラの明らかな着グルミ感は、ビジュアル的にチープだと言わざるを得ません。
しかし、その「作り物感」以上に、禍々しく怪異で重厚な、魔物とも、神とも見える存在として、その威容にリアリティーを与えたのは、エキストラまで含め表現された、戦争の災禍の記憶が、ゴジラという存在に憑依したゆえだと感じましたね。

007/消されたライセンス
6

007シリーズの中で評判も悪く、興行収入もパッとしなかった作品

007シリーズの中で評判も悪く、興行収入もパッとしなかったこの「消されたライセンス」。

評判が悪かった理由は、ボンドが親友の復讐のため007を辞するので、任務ではなくなり、必殺仕事人と化すため、ボンド本来のクールで洗練された味わいがなくなってしまったから。

興行収入が悪かったのは、当時007にライバル映画が多く出てきたためだったと思う。

1980年代後半に公開されていたアクション物といえば「インディ・ジョーンズ」「ダイ・ハード」「リーサル・ウェポン」シリーズなど、ボンド・ムービーの影響を受けているが、明らかに面白さやスケール感が上回っているアクション物が多く、007はちょっと古臭い印象を与えていたのだと思う。

前作「リビング・デイライツ」で颯爽と登場したニュー・ボンド 、ティモシー・ダルトン。
それまでのユルく年寄り臭くなった感じのロジャー・ムーアから一転、クールでタフな感じで評判もよく、この「消されたライセンス」にも出演したが、たった2作で降板してしまった。

冷戦構造が終焉を迎え、それまでのスパイもののプロットが成り立ちにくくなり、苦慮しているときにボンドになってしまったのが、ダルトンの悲劇であろう。

この作品は、それまでのボンドシリーズではあまりなかった残酷な描写もある。
親友フェリックス・ライター(デヴィッド・ヘディソン)は、鮫に足を食いちぎられる、減圧室でのクレスト(若き日のベ二チオ・デル・トロ)は、むごたらしい最後を遂げ、麻薬王サンチェス(ロバート・ダビィ)は、炎につつまれて死ぬ。

そんなリアルでダークな描写もあったため、各国のレイティングでの年齢制限も上がってしまい、この「消されたライセンス」は、アメリカでは、007シリーズのワースト興行成績を上げてしまうことになる。

ファイト・クラブ / Fight Club
10

膨張する資本主義を鋭く撃ち抜く危険な映画

冴えない生活を送る不眠症の主人公が出会った風変わりな男と始めた共同生活。
一緒に組織したアンダーグラウンドのファイト・クラブ。

そこには夜な夜な男たちが集まり、お互い、殴り殴られる真剣勝負の刹那。
組織は主人公の知らぬところで日に日に拡大し、当初の目的を逸脱していくのだった--------。

チャック・パラーニックの原作を新人脚本家ジム・ウルスが脚色し、「セブン」、「ゲーム」のデヴィッド・フィンチャー監督の問題作だ。
出演はエドワード・ノートン、ブラッド・ピット、ヘレナ・ボナム・カーター。

病んだ作品世界に病んだキャラクターと濃い役者。
過剰に攻撃的なダストブラザーズによるスコア。
後半のとんでもない展開の伏線が、なんとサブリミナル映像というルール違反。
破綻寸前でまとまった危うさ。いびつだが、魅力的な傑作、というか、他ではまず見られない大怪作だと思う。

CGの助けを借りて、自在に動きまわるカメラに象徴されるように、スタイルと物語が拮抗し、ときにスタイルそれ自体が強烈に自己主張を始める。
セックス・シーンですらCG処理してみせる、そのあまりに人為的な映像。
その居心地の悪さ、そして面白さ。そして、その必然性。

どんな作品にでも自分の刻印を明確に刻み、しかし、あくまで商業映画の枠の中で消化してきたフィンチャーだが、ここにいたっては、もはや「ベストセラー原作の映画化」をダシにして、世界を挑発しているとしか思えない。

曲者俳優エドワード・ノートンとスター俳優ブラッド・ピットが肉体改造をして熱演しているが、画面に映らない映画監督が、その両方を食ってしまっているといってもいいほどの存在感はなんなのだろう。

見た目のスタイルや刺激に惑わされそうだが、この作品は、その裏に隠されたテーマ性ゆえに、必ず、映画史に後々まで残る作品になるだろう。

日に日に肉体的なリアリティを失うサイバーな世紀末に、原初的な衝動をあらわにして殴り合う男たちを置き、1980年代から引きずり続けてきたヤッピー文化の尻尾と、膨張する資本主義を鋭く撃ち抜く危険な映画であると思う。

それを象徴するのが、この作品のラストシーン。このヴィジュアルイメージに、背筋が震えた。
初めて観た時に感じた衝撃をどう表現すればいいのだろう。
何度、観返しても惚れ惚れとする作品だ。

ブラック・レイン / Black Rain
7

キッチュな感覚と豪快な腕力の混じり合った、ユニークな娯楽映画

リドリー・スコット監督の「ブラック・レイン」は、映画ファンなら誰でも知っているように、松田優作の遺作となった映画だ。

彼が扮するのは、佐藤という妖気溢れる現代ヤクザだ。
佐藤は、抗争相手の日本人ヤクザを、ニューヨークで殺害し、はみ出し刑事のニック(マイケル・ダグラス)に逮捕される。

ニックは同僚のチャーリー(アンディ・ガルシア)を伴って、佐藤を大阪へ護送するが、空港で出迎えたニセ警官に彼を引き渡してしまう。

佐藤を奪われたニックとチャーリーは、監視役を命じられた大阪府警の松本(高倉健)とともに、悪夢のただなかへ足を踏み入れていく。

リドリー・スコット監督は、ケレン味たっぷりのタッチで、この劇画風アクション映画を撮り上げている。

十八番のスモークは、煙や蒸気の形をとって画面いっぱいに広がるし、モータープールや製鉄所やゴルフ練習場といった特異な空間の描写も、我々観る者の眼を奪う。

撮影は後に「スピード」を監督するヤン・デ・ボン。
強引な展開やくどい映像も、ところどころ眼につくが、ツボにはまった時のリドリー・スコット監督は、キッチュな感覚と豪快な腕力の混じり合った、ユニークな娯楽映画に仕上げていると思う。

ことの終わり / The End of the Affair
9

天上的な愛を体現するジュリアン・ムーアの見事な演技を堪能する映画

この「ことの終わり」は、天上的な愛を体現するジュリアン・ムーアの見事な演技を堪能する映画だと思います。

映画「ことの終わり」の原作は、イギリスのカトリック作家でスパイ小説の名手のグレアム・グリーンです。

彼は映画史上に残る不朽の名作「第三の男」の脚本を手掛け、「ヒューマン・ファクター」などのスパイ小説でも有名な、もとイギリスのMI6のスパイ出身の作家なんですね。

この映画の原作は「情事の終わり」で、原題が"The End of The Affair"で、英語のAffairとは、"浮気"という隠れた意味もあるという、そのような映画ですね。

また、この映画は原作者のグレアム・グリーンのほぼ自伝的な要素の強い、実際にあった体験を基にした小説の映画化で、監督は「クライング・ゲーム」や「マイケル・コリンズ」で、いつもアイルランド紛争の問題を先鋭的に描いて来たニール・ジョーダン。

主人公の作家ベンドリックスに「シンドラーのリスト」の名優レイフ・ファインズ、主人公の友人のサラに「アリスのままで」の名女優ジュリアン・ムーア、主人公の友人の高級官僚のヘンリーにニール・ジョーダン映画の常連で彼の盟友でもある「クライング・ゲーム」のスティーヴン・レイという、考えただけでワクワクするようなメンバーが集結していて、映画好きとしては、観る前から期待が高まります。

作家のベンドリックスは、高級官僚の友人の妻サラと激しくも狂おしい不倫の恋に落ちますが、情事の最中に空襲を受け、サラは突然、唐突に彼に別れを告げて去って行きます。

それから2年後に、サラの夫ヘンリーと合った時にベンドリックスは、ヘンリーから、サラの様子がどうもおかしく、男ができたらしいと聞かされ、2年前に別れたサラへの未だに捨てきれない嫉妬心に悩み、自分と別れた原因かも知れない、その"第三の男"とも言うべき男の存在に興味を持ち、探偵に彼女の身辺調査を依頼します。

ベンドリックスとサラの過去、サラが密かに会っているであろう"第三の男"----様々な謎が絡み合う序盤のサスペンス・ミステリータッチの語り口は、我々観る者を惹きつけて離さない、ニール・ジョーダン監督の見事な演出です。

フラッシュバックの実に巧みな使用も効果的で、やがて解き明かされる真実には、謎解きの楽しみと共に、切実で真摯な"究極の愛の形"が、ズシリと確かな手応えを伴って、胸の奥底に響いて来ます。

そして、この映画全般の雰囲気をしっとりと濡れたような感覚で静かに、しかし狂おしく奏でるマイケル・ナイマンの音楽もこの映画のムードを盛り上げてくれます。

サラがベンドリックスと別れる契機になったのは、空襲を受け、仮死状態になった彼を蘇らせるために、必死で神へ懇願したサラの"神との信仰上の約束"に基づくものでした。
このサラと信仰との出会いは、カトリック作家グレアム・グリーンによる原作の"核"になるべきものだと思います。

愛というものに生きる人間が、情欲の嵐に溺れてしまうのを踏みとどまらせてしまうのは、人の人智を超えた"何かの支え"が必要なのかも知れません。

最終的にサラをベンドリックスから引き離したものが、"神への信仰"である以上、ベンドリックスは"神"へ嫉妬し、"神"を憎むしかありません。
サラも信仰によって、慰めと苦悩の狭間を彷徨う事になります。

ここに来て、この映画は普通のありきたりの三角関係のドラマだと思えたものが、物語の中心に"神"を介在させる事で、俄然、圧倒的な深みを帯びる事になって来ます。

そして、映画のラストに用意された、奇跡とも言えるエピソードは素晴らしいの一語に尽きます。
サラの崇高な愛は、天へと浄化され、心が癒される思いがします。

つまり、この映画は感性に訴える映画ではなく、知性に訴える映画であるという事がわかって来ます。
嫉妬に悶え苦しむベンドリックスの世俗的な姿というものは、客観的に見て愚かしく、認めたくはありませんが、嫉妬と愛情が表裏一体であるのもまた、ある意味、人生の真実なのかも知れません。

だからこそ、サラの姿が輝いて見えるのであり、"天上的な愛を体現する存在"として、彼女は神々しいほど、美しく光輝く存在たり得たのだと思います。

自意識が強く、嫉妬と苦悩の狭間を揺れ動くベンドリックスを、繊細で深みのある演技を示したレイフ・ファインズはいつものように、私にインパクトを与えてくれましたが、この映画では何と言ってもジュリアン・ムーアの妖艶で芳醇な香りが漂うような美しさに見惚れてしまいました。

匂い立つような官能のラブシーンでも気品と優雅さに満ち溢れていて、"神との信仰上の約束"を守り通せなかったサラに、より人間である事の奥深さを感じさせてくれたのは、ジュリアン・ムーアの女優として、サラという人間の本質を理解し、完全になり切ったその役作りの凄さに圧倒されました。

なお、こ映画は1999年度の英国アカデミー賞にて、最優秀脚色賞をニール・ジョーダンが受賞していますね。

マイノリティ・リポート
9

フィリップ・D・ディックの同名の短編小説を、スティーヴン・スピルバーグ監督が、トム・クルーズ主演で映画化した近未来SFアクション大作

この映画は、抗う術のない運命に翻弄されながらも、その運命に立ち向かう自由意志を、未来人の姿に託して描いた近未来SFアクション大作だと思います。

この「マイノリティ・リポート」は、フィリップ・D・ディックの同名の短編小説を、スティーヴン・スピルバーグ監督が、トム・クルーズ主演で映画化した"近未来SFアクション大作"です。

2054年のワシントンDC。犯罪予防局の主任ジョン・アンダートン(トム・クルーズ)は、アガサ(サマンサ・モートン)ら三人のプリコグ(予知能力者)が得る未来映像で、殺人事件の犯人を事前に逮捕するシステムの推進に精力を注いでいた。

だが、ある日、自分が36時間以内に見知らぬ男を射殺すると告げられ、愕然とする。
そして、司法省のウィットワー(コリン・ファレル)らに追われる中、自らの潔白を証明するべく、その謎に立ち向かっていくのだった----------。

このような身に覚えのない罪で、主人公が追われるというプロットは、アルフレッド・ヒッチコック監督が得意としていたスリラーの手法を踏襲するものであり、スピルバーグ監督自身、「北北西に進路を取れ」や「知りすぎていた男」のような映画を作りたかったと、かつて語ったことがあります。
それを裏付けるように、ヒッチコック映画から引用したのではないかと思われるシーンもあります。

最初の殺人シーンで凶器がハサミであるのは、「ダイヤルMを廻せ!」と同じであるし、傘の中の逃走劇は、「海外特派員」を彷彿とさせます。

ヒッチコック監督は、舞台設定の際、まず、その土地に何があるかを考えたといいます。
この作品では、完全に自動化された自動車工場の生産ラインが、アクションの見せ場に据えられています。
スピルバーグもヒッチコックにならって、未来には何があるかと考えたのかも知れません。

一方で、緊迫した中に挿入されるユーモアなどもヒッチコック的と言えます。
永遠の映画オタク青年スピルバーグは、我々映画ファンを喜ばせることを考えながら、実は誰よりも自分が楽しんで映画を作っているに違いありません。
だからこそ、いい映画ができるのだと思います。

あらためて、スピルバーグは「絵に描いたような未来図」を創造することにかけて、天才的な映画作家であることを証明してみせたのだと思います。

何もこれは悪い意味ではなく、この作品で登場する、どこかで見たような近未来をスピルバーグのイマジネーションの枯渇とみなすのは早計で、そもそも、スピルバーグのSF映画の魅力というのは、「誰もが夢見るような未来社会」を決して手の届かないものではないということを示してくれた点にあったような気がします。

ただ、人間が作った未来社会に功罪があるとするならば、それまでは、その功を抽出してきたのに対し、この作品で、彼は罪の部分と本格的に向き合っているのだと思います。
そこに、かつてのスピルバーグ映画との違いがあるといえば言えると思います。

この映画で描かれる近未来では、人間は指紋ではなく、「瞳」によって管理されています。
地下鉄から乗り降りする者、商店街を横行する者、会社へ出入りする者など-------。

便利さの裏に潜んだ監視者の影には、ゾッとさせられます。
このように未来は、ますますプライバシーが喪失された社会になっているという事を考えると、戦慄せざるを得ません。

そこで、犯罪予防局が編み出したシステムです。
妻の浮気に逆上して殺意を持った夫が、容赦なく逮捕されてしまうオープニングのエピソード。

このエピソードの挿入は、単純な事例をもって凶悪犯罪を事前に察知するシステムの有様を見せるだけが目的ではありません。
このシステムが抱える"不条理"を、いきなりたきつけるものなのです。

数時間後に殺人を犯すから、その前に身柄を拘束するなどということが、法律学的にも人道的にも許されるのでしょうか。
考えただけでも背筋が凍るような社会です。

ドラマは二段階構造になっており、ジョン・アンダートンが、本当に殺人を犯すのかを解明するまでが第一部で、第二部ではプリコグ(予知能力者)の欠陥に秘められた陰謀に迫っていきます。

果たしてこのプリコグの欠陥とは何か。
三人のプリコグの間で予知映像が2対1に分かれた場合、一人だけが見た予知映像は、「マイノリティ・リポート(少数報告)」として棄却されてしまいます。

つまり、棄却された方が、真実の未来であったとしたら、冤罪で逮捕された人間が存在することになるのです。
かくして、タイトルの持つ意味が明らかになってから、俄然ストーリーが重みを増してくるのです。

我々の想像を遥かに上回るスピードで発達するIT社会。
ところが、その発展が勢いを維持するのは、バグが許される範疇までであり、微塵のバグも許されない領域に踏み入った時、間違いなく壁にぶつかってしまうと思います。

人間が作ったシステムに完全はあり得ません。しかし、人権や人命を扱うシステムに亀裂は絶対に許されないのです。

システムに支配された社会の落とし穴を描き出したこの作品の、未来に対するビジョンは至極明快です。
スピルバーグ監督が、こうした領域に深く踏み込んでいった背景には、スタンリー・キューブリック監督との交流や「A.I.」の製作も、何らかの影響を及ぼしているのかも知れません。
優れたSFとは、とりもなおさず優れた社会派ドラマなのです。

それにしても、各界のシンク・タンクを一室に集めて、半世紀後の未来がどうなるかを討論させ、それを映画に反映させるというアイディアは実に面白い。

だが、もっと斬新なのは、商品広告をストーリー展開に直接組み込むという試みだ。
この映画には、現在、急速な発展を遂げつつあるインターネット広告の進化形として、どこまでもネットワーク化された未来のCMがお目見えする。

取り上げられたブランドは、トヨタの高級車レクサス、ペプシ、リーボック、ギネス・ビール、アメリカン・エキスプレス、カジュアル・ウェアのGAPなどだ。
中には、このCMのためにお金を払った企業もあると言われています。おまけに、全社が広告製作に関する主導権を映画会社側に明け渡したそうです。

こうした手法は一見、未来の映画製作の道標を示しているように映りますが、実際はそんなに簡単なものではないと思います。
全ては"スピルバーグ"というネーム・バリュー、何よりその手腕に対する信頼性があってこそのことだろうと思います。

この作品は「フューチャー・ノワール」として表現されたりしますが、その呼ばれ方通り、「フィルム・ノワール」ファンには非常に興味深い内容になっていると思います。
まず、未来社会にフィルム・ノワールの伝統を持ち込むべく、あらゆるシーンが青みがかったグレーの色調、金属質のざらついた質感、コントラストの強い絵で統一されています。

そして、フィルム・ノワールの最大の特徴は、抗う術のない運命に翻弄され、犯罪に手を染めていく人間の暗い側面を描いている点にありますが、この映画はそのような運命に立ち向かう自由意志を、未来人の姿に託しているのだと思います。
スピルバーグ監督の真髄、ここに見たり!! です。

ゴジラ対ヘドラ
5

なんとも不思議なゴジラ映画

東京湾で船を襲う怪物が出現した。
そんな時、町の生物学者の山内博士(矢野明)たちは、海岸で大きなおたまじゃくし形の不思議な生き物を発見する。
しかし、それがヘドラの最初の形だった。

やがて巨大化し、陸上に上がり飛行するヘドラ。
ヘドラの出す硫酸ミストに住民は次々とやられていく。
そこへゴジラが出現し、ヘドラと対決する。

富士の裾野で踊りながらヘドラに殺されていく若者たち(柴俊夫ら)。
山内博士は電極版を使ってヘドラを乾燥させることを提案する。
果たしてヘドラを倒すことはできるのか? --------。

なんとも不思議なゴジラ映画だ。
ヘドラはヘドロから生まれた怪獣。他のゴジラ映画と違い、社会派とでも言うべきなのだろうか?
ヘドラはヘドロを食い、工場の排ガスを吸って大きくなっていく。

海を泳ぐだけの第1期、陸上歩行も可能な第2期、飛行も可能になった第3期、直立しゴジラと対峙する第4期。
徐々に大きくなっていく様には、ゾッとするような恐怖感がある。
その姿は、実に醜悪で無気味だ。
そして最後には、ゴジラよりも巨大になるのだ。

この映画には、公開当時、深刻な社会問題だった、公害問題に対する作者の怒りが反映されている。
またオープニング曲の「美しい空を返せ! 海を返せ! コバルト、カドミウムがどうしたこうした」といった、サイケデリック調の歌も1970年代っぽくて凄い。

このように書いてくると、この映画が面白そうな気がしてくるけれど、はっきり言って、映画としては、あまり面白くない。
"町の科学者が出てきて、怪獣を倒すヒントを見つけ、それで怪獣を倒す"という、従来のゴジラ映画の骨格は、確かに継承している。

しかし、ゴジラとヘドラの対決になっても音楽もほとんどなく、映画的なクライマックスに持っていこうとしていない。
つまり全然盛り上がらないのだ。

出てくる自衛隊も数人だけだし。戦っている迫力がないのだ。
襲われた街は、テレビのニュースで出てくるだけだし、パニックシーンとか都市の崩壊とか、画的な見せ場がほとんどないのだ。

もっとも演出力の問題というより、それ以前に予算がなかったのかも知れない。
出演者はノースターだし、柴俊夫が出演しているが、無名時代の別名での出演だ。
特撮シーンはとにかくチャチすぎる。

ヘドラとゴジラは、ナイトシーンでの対決が多いのだが、これが実に暗いのだ。
お金がなくて、周りの風景やバックを作るとこまで予算がまわらなかったから、暗くしてごまかそうという、感じがしてならない。

そして飛行するヘドラを追いかけるため、ゴジラは後ろを向いて放射能をはき、その勢いで空を飛ぶという掟破りもするのだ。
いくらなんでも、それはないだろうと思う。

監督はこれが第1回監督の坂野義光。劇場用作品で監督したのはこれ1本だけらしく、あと分かっているのはこの後、あの封印された怪作「ノストラダムスの大予言」の脚本を舛田利雄と共同で書いたというだけ。
でも「ノストラダムスの大予言」も書いているという事は、公害問題や環境問題に関心のある人だったのかも知れない。

あらためて、21世紀の今観直してみると、公害問題こそ聞かなくなったが、今人類が直面している"地球温暖化問題"と結び付けると実に恐い気がしてくる。

傑作なのか駄作なのか、実に判断に迷う作品だ。
ゴジラ映画としてのスペクタクル、ドラマ的な面白さは、ほとんどない。
極端に言えばATGのアート系のような作品だ。
確かに、この作品は、核の恐怖を描いた、第1作目の「ゴジラ」の路線に戻った作品だという気もする。

やっぱり、なんと言っても、第1作目の「ゴジラ」は、まず映画として圧倒的に面白かった。
でもこの作品は、映画的な盛り上がりは一切なく、ある意味、つまらない。

アンタッチャブル(映画) / The Untouchables
9

パラマウント映画創立75周年記念映画として製作された、ハリウッド大作

悪法で名高い「禁酒法」ですが、正しくは「酒類製造・販売・運搬等を禁止するという法律」という名称です。
つまり、お酒を造ること、売ること、運ぶことだけが禁止された法律であって、お酒を飲むこと自体は、禁止されていなかったということがわかります。

また、施行されるまでに1年の猶予があったため、人々はお酒の買いだめに走りました。
施行後、家でお酒が見つかっても「買いだめしておいた分です」と言えば、罪に問われなかったというのですから、ザル法もいいところです。
お酒の密輸入と密造で大儲けしたのは、ギャングたちだけだったのです。

この天下の悪法の施工時代に、世にもデカイ顏をしてシカゴの街でのさばっていたのが、暗黒街の帝王、アル・カポネです。
彼がネタになっているギャング映画は、それこそ星の数ほどあるのではないかと思われるくらい、凄い人気です。

このパラマウント映画創立75周年記念映画として製作された、ハリウッド大作「アンタッチャブル」では、ロバート・デ・ニーロがアル・カポネを演じています。
役作りのために、逆ダイエットをして太ったというエピソードはあまりにも有名です。
そして、首を傾けてしゃべる、独特の姿も強烈なインパクトがあります。

映像の魔術師、ブライアン・デ・パルマが監督をしているので、事実なんてどこへやら、徹底した娯楽アクション・ギャング映画に仕上がっています。
こういうのはあざとくて嫌いだという人もいるかも知れません。だが、それはハリウッドメジャー大作映画の宿命ともいえるものですが、私は大好きですね。

有名な駅の階段のベビーカーのシーンは、ハラハラ、ドキドキの連続で、ブライアン・デ・パルマ監督の楽しそうに撮っている顏が想像できますね。

そして、何と言っても魅力的なのは、当時、とても輝いていた主演のケヴィン・コスナーです。
絵に描いたような正義の味方。あまりにも嘘っぽくてため息が出そうですが、これぞまさに娯楽映画なんですね。

事実に基づいているとは言っても、彼の演じるエリオット・ネスは、映画のヒーローであり、架空の人物だくらいに思わないと駄目ですね。
史実と違うからおかしいじゃないかと決めつけるのは、ちょっと筋違いだと思いますね。
とにかく、カッコいいんですね。

それから、思わず注目してしまったのは、殺し屋のニッテイ(ビリー・ドラゴ)です。
とても陰険な顔つきの風貌で、目つきがとても怖いんですね。

もちろん、ショー・コネリー扮するジム・マローンも最高ですね。その年のアカデミー賞の最優秀助演男優賞を受賞しただけのことはありますね。
このジム・マローンは、FBIのリーダー的存在で、エリオットのみならず、観ている我々もグイグイ引っ張ってくれます。
ジェームズ・ボンド役を卒業した後の、ショーン・コネリーの演技に対する取り組みと研鑽が、一気に花開いたという感じですね。

今回、あらためて観直してみて、この作品はギャング映画の最高峰のひとつだと思いましたね。
エンニオ・モリコーネの音楽も素晴らしくて、この人の書くスコアは、映画の雰囲気にほんとにぴったりで、哀愁のあるメロディーを聞いているだけで感動してしまいます。

グランド・ブダペスト・ホテル / The Grand Budapest Hotel
10

遊び心たっぷりで、スピーディな展開の奇妙奇天烈なお話

この映画は、ハリウッドと一線を画し、独特な映像世界を築く、奇才ウェス・アンダーソン監督が、目を見張らんばかりの造形美(特に左右対称の造形美)を存分に生かし、遊び心溢れた、心ときめく大人の童話に仕上げてくれましたね。

ナチズムや共産主義のパワーバランスに右往左往する、不安定な東欧の歴史に弄ばれながら、コンシェルジェとベル・ボーイの波乱万丈の物語が展開し、不思議な運命の巡り会わせの結果、気が付けばゼロ氏は雇われベルボーイからホテルのオーナーになって、めでたし、めでたしという摩訶不思議なお話でしたね。

とにかく、遊び心たっぷりで、スピーディな展開の奇妙奇天烈なお話に魅了された1時間40分でした。

クィーン / The Queen
8

ヘレン・ミレンのエリザベス女王が、おそろしく、本物そっくりで驚かされる「クィーン」

この映画のタイトルは、「クィーン」と少し弱いが、原題は、「ザ・クィーン」。
あのクィーン、クィーンそのものといった含意で、迫力がある。

よく言われるように、ヘレン・ミレンのエリザベス女王が、おそろしく、本物そっくりで驚かされる。
また、マイケル・シーンも、顔つきは若干違っていても、トニー・ブレアの感じをよく出しており、ここまで似てしまうと、安っぽいパロディー劇は作れない。

実際、なかなか大人のセンスで作り、そのうえ奥行きのある皮肉も効いていて、なかなかの出来栄えだった。
しかし、本物そっくりといっても、我々は、彼女をマスメディアを通じて知っているにすぎないのだから、その、そっくりは、マスメディアで作られたエリザベス女王の社会的イメージとそっくりだというにすぎない。

だから、マスメディアでさんざんこき下ろされ、社会的イメージが安っぽいものになっているチャールズの方は、マスメディアの関数通りに安っぽくなっている。

しかしながら、この映画は、そういうマスメディアのイメージを、映画を使って、さらに増幅するのではなく、逆に、まずはマスイメージから出発して、マスメディアが捉えてこなかったエリザベスとその家族の実像に迫ろうとする。

映画の最後のほうで、ブレアが「もう少しご自分のことを考えられては」というようなことを言うと、「義務第一、自分第二と教えられましたからね」と答えるエリザベスだが、ある意味では、この人には通常の自分というものはないのだ。

常に監視された生活の中で、自分を奥深いところにしまい込む習慣ができている。
逆に言えば、映画としては、彼女の自己をどのようにも映像化できるということでもある。

ダイアナの事故死にもかかわらず、バルモラル城からバッキンガム宮殿に戻らないエリザベスに、マスコミから非難の声が湧き上がった時、エリザベスは、一人苦難に陥る-------という風に、この映画は描くのだ。

夫のフィリップ殿下(ジェイムズ・クロムウェル)や皇太后(シルヴィア・シムズ)は、明らかにダイアナを嫌っており、王家を去った者は他人だという、つっぱねた態度を取る。

ダイアナが死に、離婚したチャールズ皇太子(アレックス・ジェニングス)も悲しんでいるのに、彼らは、平気で鹿狩りに出かけるのだ。

エリザベスの内面を描くシーンの一つは、1万エーカーもある彼女の敷地を、自分でドライブしていて、車を湿原にはめてしまい、携帯で迎えの車を呼び、その間、辺りを眺めながら時間をつぶしている時、たまたま近くに、美しい鹿が現われるところだ。

彼女は、その鹿にダイアナのイメージを重ねているかのように見える。
そして、その鹿が夫たちの鹿狩りの手にかからないことを願うのだ。

これは、むろん、映画が作り出したフィクションである。
しかし、このシーンは両義的だ。
エリザベスが、優しい心の持ち主であると、ごく一般的に解釈することもできるし、また、鹿の命には哀れを感じるが、ダイアナにはそうでない、あるいは、ダイアナを鹿ぐらいにしか見ていないという風にも解釈できるからだ。

「義務が第一、自分は第二」という原理は、ビクトリア女王時代に確立されたものであって、これが、王政国家においては、国家が民族主義や経済至上主義に陥るのを防ぐ、安全装置になってきた。

しかし、20世紀後半になって、国家がグローバル化し、一国主義がありえなくなってきた時、王室を規制装置とする必要性が薄らいだ。
そしてイギリス王室が、大分依然から、「気高い」タテマエの見本を見せる主体から、スキャンダルの見本を披露する主体に変質するのは、こういう文脈の中においてだ。

今や、規制と安全の装置は一国内にあるのではなく、世界にまたがるグローバルなネットワーク状の組織であり、血の繋がりよりも、情報の繋がりを重視する。

こう考えると、ダイアナの事故死を通じてあらわになり、この映画で映像化されたエリザベス女王の危機は、現代の権力システムにとっては、必然的なものであり、エリザベスが、「義務第一、自分第二」という原則に固執すれば、危機に陥るのは当然だ。

しかし、ブレアが、ダイアナの事故死に乗じて、自分のアドミニストレイションを拡張し、かねがね母親エリザベスに不満を抱いていたチャールズ王子が、ブレアにすりよって王室の改革めいたことをしようとしたにもかかわらず、エリザベスの王室は、最終的に致命傷を負わなかった。
少なくとも映画はそう示唆している。

ところで、ヨーロッパの王室は、国家を越えている。
情報的にはむろんのこと、血族的にも、血の交換を繰り返してきた。
血の繋がりがない日本の皇室とも、緊密な連絡を取りあっている。

ローヤル・ファミリーは、国家の特権階級ではなくて、国際的な特権階級であり、インターナショナル・ルーリング・クラスに属する。
つまり、現代のグローバル権力と一体化しているのだ。

それは、一国単位で見られた国家よりも、国連や赤十字や世界銀行やその他の国際組織との方が、親密な関係を持っていると思う。

ショコラ
9

ラッセ・ハルストレム監督が描いた、美しく夢のような不思議なおとぎ話の世界

この映画「ショコラ」は、ラッセ・ハルストレム監督が描いた、美しく夢のような不思議なおとぎ話の世界ですね。

悠々と広がる、のどかな田園風景と小川のせせらぎに囲まれた丘の上にたたずむ小さな村。
カメラがその村に近づいていくと、"Once upon a time----"のナレーションが重なって来て、この夢のような、美しく不思議なおとぎ話の世界が幕を開けます。

「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」「ギルバート・グレイプ」の名匠、ラッセ・ハルストレム監督が奏でる心優しく、ハートウォーミングな素敵な映画「ショコラ」。

この物語の舞台は、フランスのある架空の村、ランクスネ。
この村に住む人々は、昔からの伝統と戒律を守り、穏やかで静かな日々の暮らしを送っています。

すると北風の吹く、とある日に真っ赤なコートに身を包んだ母娘がこの村へとやって来ます。
母のヴィアンヌ(ジュリエット・ビノシュ)と娘のアヌーク(ブィクトワール・ティヴィソル)は、閉店したパン屋を借りて、そこにチョコレート・ショップを開店します。

チョコレートの効果を知り尽くしたヴィアンヌは、村のお客それぞれにぴったりと合ったチョコレートを勧めていき、昔からの厳しい戒律に縛られた村人たちは、最初はよそから来たこの母娘に警戒心を抱きますが、次第にヴィアンヌの作るチョコレートの虜になっていきます。

とにかく、この映画に出て来るチョコレートのおいしそうな事。
人間の快楽を解放してくれる力のメタファーとして出て来るチョコレートは、何とも言葉では言い表せないような"ファンタジックな説得力"を持っています。

村人の恋愛を取り持ったり、親子の仲を改善したり、暴力的な夫に虐げられていた女性を自立させたりと、ヴィアンヌの作るチョコレートは、まるで魔法の薬のような、夢のような効果を生み出します。

このように全てが、幸せの内に物事が運んでいき、村の人々にポジティヴな生きる勇気を与えていきます。

これらのシークェンスで、人間を見つめるラッセ・ハルストレム監督の優しいまなざしを感じて、我々、観る者の心を和ませ、豊な気持ちにさせてくれます。

そして、この映画で描かれている"伝統と変化の衝突"は、実は大昔から人間の歴史を通じて繰り返されて来た、ある種の真実であり、リアリティに深く根差していると思います。
だから、このような相克に戸惑い、苦悩する村人たちの姿に共感出来るのだと思います。

登場する村人の一人一人の表情には、豊かな人間性が溢れ出ていて、我々の生活空間の中でも、とても身近な存在のように思えて来ます。

ラッセ・ハルストレム監督が描くこのようなコミュニティは、時代や国境をも越えたところで、人間同士の心の触れ合いの機微といったものを感じさせてくれます。

この「ショコラ」という映画で、ラッセ・ハルストレム監督が訴えたかったテーマというのは、多分、風のようにこの村にやって来た、この主役の母娘が、閉鎖的な村に吹き込んだ自由でおおらかな空気の恩恵を、彼女たち自身が被るところにあるような気がします。

人は何を排除するかではなく、何を受け入れるかが大切なんですよ----という"寛容で慈悲"の精神が、村をそして、村人たちを変えていきます。

当然、その結果として、チョコレートで人々に愛を分け与えてきた、この母娘は、村人たちに受け入れられ、彼女たち自身も優しい愛に包まれていきます。

そして、この映画の中で印象的で忘れられないのが、ジプシーのルー(ジョニー・デップ)が、チョコレート・ショップの壊れた戸を修理する場面です。

戸が修理された事で、いつも吹き込んでいた風がやみます。
それは、北風と共に旅を続けていた、この母娘の旅の終わりというものを象徴的に暗示しています。

遂に訪れた安住の地。やがて春が訪れ、この映画は静かに幕を下ろします。
この詩的な余韻を漂わせたラストには、本当に心が癒される思いがしました。

ヴィアンヌを演じたジュリエット・ビノシュ、ルーを演じたジョニー・デップ、二人共、肩の力が抜けた自然体の演技を示していて、この"美しく夢のような不思議なおとぎ話の世界"に、すんなりと溶け込んでいて、とても素晴らしかったと思います。

そして、何といってもチョコレートのスウィートで、カカオの効いたビターな"ラッセ・ハルストレム節"を存分に、楽しく味わえた至福の時を持てた事の喜び。

本当に映画って素晴らしいなとあらためて感じました。

エクソシスト(映画) / The Exorcist
10

現代において失われてしまった悔恨と贖罪の念を描いた、映画史に残る傑作

この映画「エクソシスト」は、現代において失われてしまった悔恨と贖罪の念を描いた、映画史に残る傑作だと思います。

この映画「エクソシスト」の製作、原作、脚色は、ウィリアム・ピーター・ブラッティで、彼は、それまでにも「暗闇でドッキリ」とか「地上最大の脱出作戦」等、数多くのコメディ映画の脚本を書いていますが、コメディと違ってこの「エクソシスト」が、果たして成功するのかどうか、全くわからなかったと彼は語っています。

彼の両親は、シリアとレバノンの生まれで、映画の冒頭に出てくる中東の廃墟の場面は、彼の出生とアメリカ情報局勤務当時の、その地での記憶と深く関わりがあると言われていますが、映画の本筋からは少しそれた感じを受けました。

それより、むしろ、この映画の実質的な、本当の意味での主役ともいえる、ギリシャ移民の子であるカラス神父(ジェーソン・ミラー)の、アメリカ社会から疎外されたような孤独な姿の中に、ウィリアム・ピーター・ブラッティの生い立ち、人間像、系譜といったものが生かされているような気がします。

この映画が、初めて公開された当時の日本では、ユリ・ゲラーの"スプーン曲げ"がもてはやされ、超能力やオカルト現象がブームを巻き起こしていました。
科学万能やエレクトロニクス革命の時代への反動のように、超常現象への関心が異常な程、高まっていました。

この事が「エクソシスト」を頂点とする、いわゆる"オカルト映画"のブームとなって現れたことは間違いありませんが、それは単に表層的なオカルト映画や見世物の恐怖ではなく、神と悪魔の存在を信じる欧米人にとっては、「エクソシスト」を始めとする一連のオカルト物は、彼らの心に奥深く突き刺さり、恐怖と戦慄を呼び起こしたのではないかと思います。

この映画のストーリーは、1949年のメリーランド州のある町で、14歳の少年の身に実際に起こった事件が元になったという事で、この少年は、3カ月に渡って悪霊に苦しみましたが、カトリックの"悪魔祓い師"(エクソシスト)によって解放されたそうです。

しかし、本当にこのような事実があったのかどうか、そして、カトリックの秘法によって人間の心が救われるのかどうか----我々、現代人にとってはなかなか信じ難い事です。

ましてや、キリスト教の歴史や背景や教義について、ほとんど知らない我々日本人にとっては、この映画の宗教的な本当の深さは、到底、わかりようがない気がします。

映画「エクソシスト」で描かれる、悪魔に取り憑かれた12歳の少女リーガン(リンダ・ブレア)の異常でおぞましい振る舞いは、むしろ滑稽でもあり、生理的な嫌悪感しか感じさせません。

悪魔の所業を示す音響効果や特撮も、反対にその実在感というものを希薄にしているような気がします。

むしろ、病院で再三再四繰り返される、脳や脊髄の近代的な医学検査の残酷さこそショッキングであり、また、カラス神父が自分の老母を貧窮の中に死なせる、ニューヨークの精神老人病棟の悲惨な状況の中にこそ、現代の悪霊そのものの姿を感じてしまいます。

カラス神父の、神に一生を捧げたばかりに、精神病の医者の資格を持ちながら、愛する母親を生ける屍のように放置しなければならなかった苦しみは、少女の悪霊に白髪の老母の姿を見て、その声を聞き間違う程に深いものがあったのだと思います。

そして、少女に巣食った悪霊を自らの心に受け入れて、身を捨てるカラス神父の壮絶な最期は、"現代において失われてしまった悔恨と贖罪の念"を我々観る者の魂の奥底に突き付けてきます。

この「エクソシスト」は当時、評判になったような少女リーガンの異常で、怪奇的なオカルトタッチの姿にその興味を持つのではなく、悪魔祓い師(エクソシスト)の"カラス神父の絶望の淵に深く沈みこんだ心"にこそ、焦点をおいて観るべきなのだと強く思います。

半ば壊れかかったアパートで、一人ラジオを聴き、病院のベッドで顔をそむけ、そして、地下鉄の入り口に幻のように現われる老母の姿は、カラス神父にとっては、少女リーガンに取り憑いた悪霊そのものです。

そして、この悔恨の悪霊は、乱れた男女関係その他、諸々の人間関係から生まれた、この世の邪悪と共に、この純粋で無垢な少女の身を借りて、醜い悪魔となって、この世に現われて来たような気がします。

そして、メリン神父(マックス・フォン・シドー)とカラス神父の二人の死というものを代償にして、やっと追い祓われる悪魔は、実は"現代社会の中で、人それぞれに歪められてしまった心そのもの"である事を暗示的に示しているのだと思います。

原作、脚色のウィリアム・ピーター・ブラッティと監督のウィリアム・フリードキンの、この映画に情熱をかけた真の狙いもそこにあったのだと思います。

宇宙戦争 / War of the Worlds
8

ステイーヴン・スピルバーグ監督が久々に本領を発揮した、暗くて怖い映画

ある日突然、地球侵攻を開始した異性生命体。
地中深くに埋められていた、三脚の戦闘マシーンの放つ怪光線や触手の前に、人々は逃げ惑うしかない。

たまたま遊びに来ていた2人の子供を連れ、なんの情報もない中で、前妻の住む街を目指す主人公。
出演はトム・クルーズ、ダコタ・ファニング、ティム・ロビンスら。

これは決して愛と勇気の感動娯楽映画などではないから、取り扱いは要注意であると思う。
なにしろ、米国の劇場公開のレイティングを決める際にリアルな暴力よりは一段低く見られる「SF的なバイオレンス」表現であるとはいえ、多くの人が気付いているように、「鬼畜」描写が大好きなステイーヴン・スピルバーグ監督が久々に本領を発揮した、暗くて怖い映画なのだ。

製作の成り立ちを聞くと、「ちょっと空いた時間に気軽に作った趣味的な小品」に聞こえてしまうこの作品において、スピルバーグは米国本土を戦場とし、為す術も無く外敵に蹂躙され、恐怖に震え上がり、逃げ惑う人々の姿を、自らが生き残るためには手段を選ばない人間の醜さを、その中で大人たちが、無垢な存在である子供に対して負っている責任を描いているのだ。

主人公の言動は、平均的なハリウッド大作の主人公=ヒーローとは随分異なっていて、格好良さや威勢の良さとは無縁だ。
こういう描写をするところにも、作り手の中途半端ではない真剣さをみることができると思います。

いつもは緩急ある演出で、サスペンスを盛り上げるのが巧いスピルバーグが、いつになくシリアス一本調子であるのも、娯楽映画のバランスとしてはどうかと思いますが、映画の狙いがそこにあるのだから致し方ないだろう。

違う言い方をするならば、これは「原作を踏襲した一応のハッピーエンディングも嘘臭く見えるほどの圧倒的なまでの負のエネルギーが、スピルバーグ一流のサスペンス・テクニックと共に炸裂する、イビツな娯楽イベント映画なのだ。

ポスト911の世界において、最も盛大にそのトラウマをぶちまけて見せた作品であり、つまらない駄洒落承知でいうならば「悪夢との遭遇」だ。
三脚戦車がブォーッと音を立てて、のし歩く姿を遠景に見ながら、何も出来ない無力感。あの光景。

光のシャンデリアとは、音楽でコミュニケーションをとったが、あの異星人のマシーンはコミュニケーションを拒絶する。

一聴してその声とわかるモーガン・フリーマンのナレーションは、圧倒的な力で相手をねじ伏せるのではなく、異質なもの同士が、長い時間をかけて共存する術を学ぶことにこそ解決の糸口があるのだと語るのだ。

あれだけの科学力を持つ異星人が、あんなことを見逃すのはおかしいなどというのはナンセンス。
あれだけの軍事力を持つ米国が、テロを壊滅させることができないがごとく——–。

普通の民間人である主人公の視点を徹底して貫く映画の構造は、先行したシャマランによる異星人侵略SF映画「サイン」も同様であったが、あちらの作品での異星人というのは、単なるギミックであって、それ以上のものではなかった。

表面的には、HGウェルズの原作に忠実なこの作品は、そういう狙いすました目新しさではなく、もっと本質的に、他の映画では感じたことの無い恐怖を体感させてくれる。
もちろん、スピルバーグのテクニックは本物だから、それに翻弄されるのは、実に楽しい。

これが「ちょっとスケジュールが空いたから」と、1年足らずの間に撮影され、公開された作品だとは、にわかに信じられないのだ。
早撮りスピルバーグ、恐るべし。

海の上のピアニスト / The Legend of 1900
9

天才ピアニストの数奇な運命が、唯一の親友の回顧録として語られる一大叙事詩

この珠玉の名作「海の上のピアニスト」は、「ニュー・シネマ・パラダイス」のジュゼッペ・トルナトーレ監督が、一人芝居として有名なアレッサンドロ・バリッコの原作をもとに映画化し、私のように心から映画を愛する者に、また一つ忘れ難い感動を与えてくれた作品です。

船上で生まれ育ち、生涯一度も船を降りなかった天才ピアニストの数奇な運命が、唯一の親友の回顧録として語られる一大叙事詩となっています。

この映画の冒頭の客船に迫る自由の女神を目前にして、移民たちが、「アメリカだ!」と叫び、狂喜するシーンを観た時、「この映画は絶対好きになるに違いない」と確信しました。
このシーンこそが、このように”素晴らしい寓話”への入り口なんだと——-。

そして、今は落ちぶれたトランペット奏者のマックス(プルート・テイラー・ヴィンス)が、楽器屋の主人に話して聞かせるという構成で、この感動の物語は展開していきます。

生年に因んで1900(ナインティーン・ハンドレッド)と名付けられた子供は、船倉で育つ事になります。
ピアノとの出会いは、8歳の時で、一等客室に忍び込んで、ダンスホールのグランドピアノを弾きこなし、船の人々を驚かせたりします。

そして、成長したナインティーン・ハンドレッド(ティム・ロス)は、船に乗り合わせた人々が語る、陸の世界の風景や彼らの表情に浮かぶ生き様といったものに、インスピレーションを得て、その”夢や憧憬”を鍵盤に託していくのです——-。

その余りにピュアで、美しい音楽は、無垢なナインティーン・ハンドレッド自身の姿そのものなのだと思うのです。

ジャズの創始者であるジェリー・ロール・モートンの挑戦を受けて弾く、ピアノの力強さも実に聞き応えがあり、ユーモラスな雰囲気も手伝って、忘れられない名場面になったと心から思います。

陸から見える海の美しさを語り、人生をやり直すべくアメリカへと旅立った男との出会い、最初で最後の録音演奏中に、窓越しに見かけた美しい少女へのほのかな恋心。
そして、彼は船を降りる決意を固めていくのです。

しかし、果てしなく広がる摩天楼を前にして、彼は船へと引き返していくのです——-。

果たして、自分の世界に閉じこもる事を選んだ彼は、我々が共感すべくもない臆病な、人生の敗北者なのか?
いや、それは違うと思うのです。我々は彼が現代の外界が抱える”不安や毒”に触れてしまう事を望まないのです。

寓話は寓話として、美しいまま幕を閉じる事を切に臨むのです。

私は、マックスとナインティーン・ハンドレッドとの出会い、そして別れのシーンが大好きで、嵐の夜、激しく揺れる船内で、ストッパーを外したピアノの前にマックスと並んで座り、くるりくるりと回るピアノを奏でるナインティーン・ハンドレッド——-。
何ともファンタジックで、夢のような時間に酔いしれてしまいました。

そして、爆発前の船を降りて行く、マックスを見送る最後の瞬間、名残惜しそうに一度、二度と声を掛けるナインティーン・ハンドレッド。
彼のどこか弱い人間臭さを感じて、目頭が熱くなるのを禁じ得ませんでした。

とにかく、伝説のピアニスト、ナインティーン・ハンドレッドを演じたティム・ロスが、一世一代の名演技だったと思います。
穏かな表情の奥に、”先行きの見えない人生への不安”を見え隠れさせて、見事というしかありません。

そして、そんなナインティーン・ハンドレッドの切ない心情を映し出す、エンニオ・モリコーネのオリジナル・スコアの素晴らしさ。
一度きりの瞬間、瞬間を捉え、二度目はないという音楽は、様々な表情を見せ、たっぷりと感動の余韻に私を浸らせてくれました。

そして、「いい物語があって、それを語る人がいるかぎり、人生は捨てたもんじゃない」というナレーションは、そっくりそのままジュゼッペ・トルナトーレ監督の映画に対する取り組み方を表していると思います。

感動のツボを押さえた語り口のうまさは、もはや名人芸に達していて、いい物語を聞かせてあげたいというトルナーレ監督の、”温かく優しい思い”で溢れていて、楽器屋の店主が、マックスに大事なトランペットを返してやるラストの人情劇も、とても心が温まる思いで、名画を観終えた後の感動が、私の心の中でいつまでも爽やかな余韻として残り続けたのです。

ウォッチメン / Watchmen
7

1980年代のアメリカン・コミックスを原作にした映画「ウォッチメン」

個人の身の周りで起こる出来事は、時に国家の判断や世界情勢と深く関係しているものです。

この1980年代のアメリカン・コミックスを原作にした映画「ウォッチメン」は、一見無関係なマクロな状況とミクロな視点を融合させたエンターテインメント大作だ。

ヴェトナム戦争やジョン・F・ケネディ大統領暗殺、キューバ危機。20世紀のアメリカを揺るがし、震撼させた事件の陰に「ウォッチメン」と呼ばれる"監視者"たちがいた------。

だが、政府の命令で1977年に彼らの活動は禁止され、メンバーの中には一市民として日常を送るものもいた。

ニクソン大統領が政権を握り続けていた1985年のニューヨークでメンバーの一人、ブレイクが暗殺される。謎の男ロールシャッハが、科学実験で超人となったジョンや、事業を成功させて巨大な富を築いたエイドリアンら、かつてのメンバーを訪ね、事件の闇に迫っていく。

善と悪を絶対視せず、とことん暗いトーンでヒーローを描く手法は「ダークナイト」を連想させるが、構成はより複雑で、その世界観も壮大だ。

アフガニスタン情勢をめぐってアメリカとソ連の間の緊張は頂点に近づき、核戦争の恐怖が日増しに高まっていく。このように、予断を許さない政治サスペンスと、殺人事件をめぐるミステリーが並行し、時に交錯しながら進行していく。

超人が瞬時に空間移動するなど、フィクションであるのは明らかだが、安心しながら観ることはできない。"核の恐怖"と"敵国"に対する妄想に悩まされた時代の"空気"が実にリアルで、私の気持ちを不安にさせ、ストーリーに引きずり込むのだ。

宇宙や生命、倫理、アクション、ラブストーリーといった要素を詰め込みながらも、ザック・スナイダー監督は違和感なくまとめていると思う。

この映画は、21世紀の視覚効果が、20世紀の風景や衣装とこれまたうまく融合していて、私の感性を限りなく刺激するのだ。

アポロ13
7

大失敗の宇宙計画を奇跡の生還ドラマとして、皮肉を効かせて描いた作品

この映画「アポロ13」は、大失敗の宇宙計画を奇跡の生還ドラマとして、皮肉を効かせて描いた作品だと思います。
ニール・アームストロング船長とバズ・オルドリンの二人の宇宙飛行士が、月面着陸に成功し、人類が歴史上初めて月に立ったのが1969年7月。
歴史に名を残す、"アポロ11号"ですね。

その4カ月後の11月にはアポロ12号が、2回目の月面着陸に成功。
3回目は、1971年の2月で、これがアポロ14号。
その年の7月には、アポロ15号が着陸。翌1972年4月に16号。

そして、その年の12月に17号が着陸を成功させたところで、このジョン・F・ケネディ大統領が始めた"アポロ計画"は、打ち止めになりましたが、約3年半の間に合計6回の"人類が月に立つ"という偉業を成し遂げ、まさに"月旅行ラッシュの時代"だったのです。

アポロ13号はこの間にあって、唯一、月面着陸が出来なかった宇宙船です。
しかし、月面着陸出来なかった"月旅行マンネリズム"を打ち砕き、その後の劇的な大騒動を生む事になります。

俳優出身のロン・ハワード監督の大作「アポロ13」は、そのような状況を皮肉をたっぷり効かせて描いている映画ですね。
そして、また、このような状況の映画の先駆けとなった、「宇宙からの脱出」(ジョン・スタージェス監督)へのオマージュを捧げた映画にもなっていると思います。

ジム・ラヴェル船長(トム・ハンクス)以下、ケン・マッティングリー(ゲーリー・シニーズ)、フレッド・ヘイズ(ビル・パクストン)の三人が乗り組む予定だったアポロ13号は、打ち上げ直前になって、ケン・マッティングリーが風疹にかかる恐れがある事が判明し、メンバーから外され、代わりにジャック・スワイガート(ケヴィン・ベーコン)が乗り組む事になります。

これが、この映画のその後を予感させる、最初の不穏な幕開きとなります。
打ち上げ時刻は4月11日13時13分--------。
この縁起の悪い数字の重なりも不気味なものを感じさせましたが、果たして予感した通り、13日になって酸素タンクが爆発、月面着陸どころか地球への帰還も危ぶまれるという最悪の状況に追い込まれます。

しかし、NASAのスタッフは、主席管制官のジーン・クランツ(エド・ハリス)以下、総力を結集して無事、宇宙船を地球へ帰還させる事に成功します。
この宇宙船を地球へ帰還させるあたりの経過が、なかなかどうして大がかりでダイナミックに描かれているので、非常に映画的緊張感を伴って、見応えがあります。

ただし、宇宙船の内部とヒューストン管制センターという映像としての画面が地味なため、盛り上がりに欠けるし、宇宙船内の空気が刻々と濁って来るという"閉塞状況のサスペンス"も、よくある潜水艦座礁映画でおなじみのもので、あまりインパクトが感じられませんでした。

やはり、ドキユメントとしての迫真性や緊迫感というものは、ジム・ラヴェル船長が書いた原作の「アポロ13」(新潮文庫)の本物の迫力の前では色褪せてしまいます。

ただし、原作よりも唯一、勝っている点として、マスコミの狂騒ぶりを描いたところで、これは映画ならではの面白さに満ちていたと思います。
月面着陸では、もはや視聴率が獲れないという事で、テレビ中継もなかったのに、事故が発生して宇宙飛行士の生命が危機に瀕するや、テレビ放送でのバカ騒ぎともいえる報道が繰り返されます。

大失敗の宇宙飛行計画が、"奇跡の生還ドラマ"に変じてしまうのだから、考えてみればおかしな話です。

1972年12月のアポロ17号の月面着陸成功の後、人類は月へは行っていません。
「2001年宇宙の旅」(スタンリー・キューブリック監督)のような月面の基地も、宇宙ステーションも建設されていません。
テクノロジーの進歩という事を声高に標榜していましたが、それは結局、軍拡と本質は同じもので、当時の冷戦下のソ連との政治的な競争意識がもたらしたものだったろうと思われます。

ロン・ハワード監督は、そのあたりの微妙なニュアンスを皮肉をたっぷりと効かせて描いていたように思います。

なお、この映画は1995年度の第68回アカデミー賞の最優秀音響賞と最優秀編集賞を受賞し、同年の英国アカデミー賞の特殊視覚効果賞、プロダクションデザイン賞を受賞していますね。

雨に唄えば / Singin' in the Rain
10

アメリカ映画史に残るミュージカル映画の傑作

1930年代後半から1950年代にかけて、MGMが製作した数あるミュージカル映画の最高峰、と言うより、アメリカ映画史に残る傑作が「雨に唄えば」だと思います。

この映画は、もう何度も数えきれないくらい観ていますが、観るたびに、これほど胸踊らされるミュージカル映画は他にはないと思うくらいです。

この作品は、何と言っても、監督・振付・主演を務めたジーン・ケリーの魅力に尽きると言ってもいい映画で、とにかく彼が大活躍するんですね。

元来、ジーン・ケリーという俳優は、"俺が俺が"の出たがりタイプなのですが、この作品では、それがプラスに作用したと思うんですね。

ダンサーとしては派手な見せ場を好み、彼のライバル、フレッド・アステアの優雅でエレガントで粋なダンスとは対照的に、ダイナミックな踊りっぷりで鳴らした彼の、ベスト・パフォーマンスを心ゆくまで堪能できる映画だと思います。

そして、共演に、ドナルド・オコナーとデビー・レイノルズを抜擢したことも大正解だったと思います。
当時、若手の二人が加わることで、さらに活気溢れるミュージカル・ナンバーが仕上がったのだと思います。

やはり、この作品の白眉は、なんと言っても、主題歌「雨に唄えば」ですよね。
どしゃ降りの雨の中で、恋の喜びを歌い、そして踊るジーン・ケリーの素晴らしさは、もはや説明不要だと思います。

それくらい、例えようもなく素晴らしく、このシーンは何度観ても、胸躍らされるものがありますね。
満面の笑みをたたえて踊る彼を観ると、この世の憂さも吹き飛んでしまいます。

まるで、ワンカットで撮影したような流麗なカメラワークも、実に見事で、彼の歌とダンスを大いに盛り上げていると思います。

他にも、ドナルド・オコナーが、体を張って多芸ぶりを披露する「笑わせろ」。
フィルムに記録された最高のタップ・ナンバーと謳われた、ジーン・ケリーとドナルド・オコナーの丁々発止のタップ合戦「モーゼズ」。

デビー・レイノルズを加えたトリオが賑やかに歌い踊る「グッド・モーニング」など、呆れるほど楽しいナンバーが続出して、楽しませてくれるんですね。

そして、映画の後半のハイライトが、13分の長尺ナンバー「ブロードウェイ・メロディ・バレエ」ですね。
共同監督のスタンリー・ドーネンは、後に彼の自伝で「長過ぎた」と反省しているらしいのですが、無数の群舞を率いたジーン・ケリーのエネルギッシュな踊りは、まさに圧巻です。
そして、極彩色のセットも実に美しかったですね。

アバウト・ア・ボーイ / About a Boy
9

ライト・コメディの傑作 「アバウト・ア・ボーイ」

"人と人が接する時に感じる内心の不安や自分の弱い部分を見透かされないだろうかという不安を、等身大の人間の姿で描いたライト・コメディの傑作 「アバウト・ア・ボーイ」"

この映画「アバウト・ア・ボーイ」の主人公の38歳の独身男ウィル(ヒュー・グラント)は、亡くなった父親が一発ヒットさせたクリスマス・ソングの印税で優雅に暮らすリッチな身分。
一度も働いた事がなく、TVのクイズ番組とネット・サーフインで暇をつぶし、適当に付き合える相手と恋愛を楽しむ、悠々自適の日々を送っています。

ところが、情緒不安定な母親と暮らすマーカス少年(ニコラス・ホルト)との出会いが、彼の生活をかき乱していく----という、非常に興味深い設定でのドラマが展開していきます。

まさに現代ならではのテーマをうまく消化して、ユーモラスで、なおかつ、ハートウォーミングにまとめ上げた脚本が本当にうまいなと唸らされます。

30代後半の独身男の本音と12歳の少年の本音を、それぞれ一人称で描きながら、それを巧みに交錯させていくという構成になっていて、それが、二人の男性、ウィルとマーカスがいかにして心を通わせていくのかが、このドラマに説得力を持たせる上で重要になってくるのです。
そして、これが実にうまくいっているから感心してしまいます。

表面を取り繕う事に長けたウィルは、今時の小学生が歓迎すると思われる、クールなスタイルを本能的に知っています。
マーカスはそんなウィルを慕っていきますが、それだけではなく、ウィルの人間的に未熟な部分が、結果として二人の年齢差を埋める事に繋がり、マーカスはウィルを自分の友達の延長戦上の存在として見る事が出来るようになるのです。

マーカスは彼の持つ性格的な強引さの甲斐もあって、ウィルという良き兄貴を得る事が出来、一方のウィルは、自分だけの時間にズケズケと土足で踏み込んで来たマーカスを、最初こそ煙たがっていましたが、彼と深く接していく中で、次第に"自分の人生に欠けていたもの"に気付かされていくのです。

この映画は、そんな二人の交流の進展に歩を合わせるように、"人間同士の絆や家族"といったテーマを浮き彫りにしていくのです。

日本でも最近は、"シングルライフ"というものが、新しいライフスタイルでもあるかのように市民権を得つつありますが、確かに、お金さえ払えば、ありとあらゆる娯楽やサービスが手に入る時代になって来ました。個人が個人だけで、あたかも生きていけるというような錯覚に陥ってしまいがちな現代。

もっとも、この映画はそんな現代人に偉そうにお説教を垂れているのではなく、むしろ、大半の人間はそんな現代というものに、"不安と寂しさ"を感じ始めているのではないかと問いかけているのです。
だからこそ、この映画は多くの人々が共感を覚え、ヒットしたのだと思います。

そこにきて、ウィルを飄々と自然体で演じたヒュー・グラントという俳優の存在です。
ウィルは、ある意味、"究極の軽薄な人間"として描かれていて、本来ならば、決して共感したくないようなキャラクターのはずなのですが、ヒュー・グラントが演じると、何の嫌悪感もなく見る事が出来るので、本当に不思議な気がします。

ヒュー・グラントは、このような毒気のあるライト・コメディを演じさせれば、本当に天下一品で、彼の右に出る者などいません。
余りにも自然で、演技をしているというのを忘れさせてしまう程の素晴らしさです。

そして、困った時に見せる微妙にゆがんだ何ともいえない表情といったら、他に比べる俳優がいないくらいに、まさしくヒュー・グラントの独壇場で、もう最高としか言いようがありません。

かつての"洗練された都会的なコメディ"の帝王と言われた、ケーリー・グラントの再来だと、ヒュー・グラントが騒がれた理由が良くわかります。

この映画は、そんなヒュー・グラントの持ち味を最大限に活かして、誰もが表だっては認めたくないような人間らしさに踏み込んでみせるのです。

そして、人と人が接する時に感じる内心の不安や自分の弱い部分を見透かされないだろうかという不安を、等身大の人間の姿を通して映し出す事に成功しているのだと思います。

アザーズ / The Others
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光と闇の巧みなコントラストが際立つ、完璧な恐怖映画

1945年、第二次世界大戦末期のイギリスのジャージー島。出征した夫の帰りを待つニコル・キッドマン扮するグレースは、広大な屋敷で二人の子供と暮らしている。
子供達は、極度の光アレルギーで、屋敷の窓という窓には、いつも分厚いカーテンがかかっている。
ある朝、屋敷に三人の新しい使用人がやって来る。
そして、その日を境に、数々の不可解な現象がグレース一家を襲い始める。
屋敷の中に見えない何者かが入り込んでいる。それは一体誰なのか? というスリリングな物語ですね。

近年のホラー映画は、スプラッタやサイコ系が主流を占めていると思います。
確かに、死者の魂や幽霊といった宗教観は、IT全盛の現代にあっては、いかにも古臭いという感じは否めません。
そんな中、アレハンドロ・アナーバル監督は、オールドスタイルのゴシック・ホラーに、恐怖演出の原点を見出し、古典への帰着を起点として、新たなゴシック・ホラーを創造しようと試みていると思います。
この点が、私がこの作品を好きな理由なんですね。

誰もいない部屋から聞こえてくるピアノの音、不気味にはためく窓辺のカーテン、死者の写真、闇夜に浮かび上がる洋館、といった怪奇演出は、怪談文化をバックボーンに持つ、我々日本人のセンスにもしっくりと馴染むような気がします。
何を見せて、何を見せないのか。これは恐怖映画の永遠の命題だろうと思います。
アレハンドロ・アナーバル監督は、ヒッチコックの映画から多大な影響を受けたと語っていますが、ヒロインが見えない存在への恐怖に浸食されていくという観点から、とりわけ「レベッカ」の表現技術を意識していると思います。
そして、見えないものに息を与え、得体の知れない恐怖を生み出すことに成功していると思います。
さらに、グレース・ケリーやジョーン・フォンテーンといった、ヒッチコック映画のヒロインを思わせるニコール・キッドマンのクール・ビューティーぶりが、もう素晴らしいの一言に尽きますね。
情緒不安定なヒロインの錯綜する心理を見事に演じ、恐怖とインパクトを増幅させてくれます。

この映画の売りは、なんと言っても、やはり衝撃のドンデン返しにありますね。
しかし、この映画はスマートなストーリー・テリングを尊重しており、そのためには、中途で少しぐらいのヒントなら見せても構わないと考えているフシがありますね。もちろん、全ては緻密な計算に基づいてはいますが。
そして、最後はとても哀れで悲しい物語として完結するんですね。
生者と死者の世界のあやふやな境界線に、深い思いを馳せずにはいられません。
オチを知ってしまった今でも、もう一度観てみたいと思わせてくれるんですね。

光と闇の巧みなコントラストが、この映画を完璧な恐怖映画に仕立て上げていると思います。
この映画では、暗闇はサスペンス、光はショックを演出しています。
暗闇は恐怖の余り、真相が見えなくなっていることを象徴し、光は子供を殺し得る危険なもの、最後には視点を変える契機として、劇的な役割を果たしているのだと思います。

アイアンマン2 / Iron Man 2
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「アイアンマン」の第2弾

マーベルが着々と進めていった「アベンジャーズ」映画化作戦の、今となっては中核としての地位を不動のものにした「アイアンマン」の第2弾が、この「アイアンマン2」だ。

引き続き、キャプテン・アメリカや、マイティ・ソーなどが映画化され、マーベル的に、ここはきっちり成功しておきたいところだっただろう。
ご存知の通り、前作は期待を上回る面白さだった。

何が面白いといって、ガレージでアイアンマン・スーツをバージョンアップさせながら、完成させていく、 Do It Yourself な感覚とか、主人公のちゃらんぽらんなキャラクターとか、もちろん、それを演じるロバート・ダウニーJr. その人の個性が、渾然一体となった演技が際立っていたと思う。

気楽に楽しめる、コミック原作のヒーローものとしての絶妙なバランス感覚とか、あまり欲張らずにコンパクト、かつスピーディにまとめ上げた娯楽職人的センスとか、挙げればきりがない。
そういう様々な要素が絡まって、非常に楽しい1本であった。

続編はどういう手でくるのか?
それが今回の続編の楽しみの一つでもあったが、蓋を開けてみれば、非常にオーソドックス、予算にモノを言わせた、派手な物量作戦なのであった。

こういうのは、通常はダメな続編にありがちなパターンだ。
だが、どうだろう。そもそも小難しい映画じゃないのだから、むしろ、こういうあっけらかんとやらかしてくれるのも悪くないんのではないか。

言葉を換えるなら、分をわきまえたものとでも言えないだろうかと思うのだ。
前作の面白さの根本的なところに、あまりに複雑になってしまったコミック・ヒーローものを、本来のあるべき単純な世界へと引き戻したことがあったとすれば、成功した娯楽映画の、続編のシンプルな王道をやるのがこの作品のあるべき姿なのかもしれない。

そういう意味からして、映画の完成度では、前作に遠く及ばない。
だが、これはこれで楽しい映画であると思う。
ロバート・ダウニーJr.がいて、強い敵がいて、新しいキャラクターや新型メカがいっぱい登場して、派手な見せ場が盛りだくさん。
正直、相当欲張った、全部盛りである。

ジョン・ファブロー監督の偉いところは、これだけの内容を約2時間の尺にきっちりと収めてみせるところだ。
こういう職人的な見識と手腕は、大作といえば、大した内容でもないのに、やたらとダラダラ長いのが幅をきかせる昨今にあって、高く評価したいポイントだ。

逆に、残念に思うことがあるとすれば、主要キャラクターで役者の交代があったことだ。
ドン・チードルは嫌いではないが、顔の形といい、体格といい、テレンス・ハワードのほうが役にあっていたと思う。

予告編を観た時には、なんだか汚らしい格好をしたミッキー・ロークが、半裸で暴れているだけで不安にさせられたが、この男、自分が暴れるだけではない知能犯なのであった。

クライマックスでは、陸海空各種タイプを取り揃えたロボット軍団が大暴れする。
大方の予想どおり、重武装をまとったウォーマシンも登場し、ミッキー・ロークも巨大なアーマーを身に纏って参戦。

等身大ロボットの大激突映画というジャンルでは、フィル・ティペット渾身のゴー・モーションによる、クライマックスが素晴らしい金字塔「ロボコップ2」に並ぶほどの見応えがあったと思う。

アイアンマン / Iron Man
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マーベル映画の隆盛を築いた作品

マーベル映画の隆盛を築いた作品として、マーベル映画の歴史に残る「アイアンマン」は、「ダークナイト」のような深みはないが、理屈抜きに、最高に面白い。

コミックスのヒーローだから、不死身で当然だが、ロバート・ダウニー・Jr.が演じるアイアンマンは、天才的な頭脳と最先端の技術の産物である、アイアンマンスーツを着けているから不死身なのであって、その意味では誰でもがなれるヒーローなのだ、といった理屈を構築してある。

若くして才能を発揮し、父親の軍事工場を継いで、次々と新しい武器を発明するスターク社のCEO、トニー・スタークは、イラクへの視察の途中、ゲリラの攻撃を受け、重傷を負う。

気が付くと、武装集団の基地の中で、一命をとりとめたのは、同じく捕虜になっている医師インセン(ショーン・トーブ)が、バッテリー駆動の人工心臓を埋め込んでくれたからだった。

武装集団のリーダー、ラザ(ファラン・タヒール)は、彼らにスターク社の最新兵器を作らせようとするが、トニーは、飛行可能な着脱式のパワード・スーツを作って逃げ出すことを考える。

自動車のバッテリーを抱えながら行動するのは不便なので、まず、彼は、アーク・リアクターなるものを自作し、人工心臓を自動駆動にする。

それを装着したトニーの心臓の部分は、プラズマライトのおもちゃでもつけたように光っていて、こんなものを着けたら、武装集団に怪しまれてしまうのではないかと思うのだが、そうでもないところがコミックス。

やがて、武器ではなく、脱出装置を作っているのがバレてドンパチが始まるが、トニーは、インセンの犠牲的な強力で、パワード・スーツで収容所を脱出。

砂漠に着陸して、彷徨っているのを、スターク社と密接な関係を持つ軍の空軍中佐ドーディ(テレンス・ハワード)が差し向けた捜索隊のヘリに助けられる。

アメリカに英雄的な帰還を果たしたトニーは、マスコミの記者会見で、スターク社が軍事から手を引き、平和産業に転身すると宣言して、最高幹部のオバディア・スティン(ジェフ・ブリッジス)を驚かせる。

彼は、トニーの父親の友だちであり、良き番頭としてトニーにつかえてきた。
スキンヘッズのジェフ・ブリッジスを見るのは初めてなので、これまでのイメージを一新して面白いが、一新したのには理由があり、それがだんだんはっきりしてくる。

軍事産業であるから、当たり前だが、彼は、武装集団にも武器を供給していたのだ。
ここから、やがて、ドラマの核心は、トニーとオバディアとの闘いへと進んでいく。

アメリカの軍事産業が、直接、中東の武装集団に武器を供給していれば、それは、すぐに問題になるが、蛇の道は蛇で、様々な迂回路を通して、表面的な敵、味方の関係を無視した形で武器が供給されている。

「敵こそ、我が友」のクラウス・バルビーのような奴が、無数に暗躍しているのだ。
さもなければ、中東で起こる、自爆攻撃や自動車爆弾に必要な火薬類が手に入るはずがない。

天才トニーには、友だちはいない。彼を食事から日常的な記憶までの世話をするのが、グウィネス・パルトローが演じるペッパー・ボッツという女性だ。

常に一線を置き、プレイボーイのトニーの女にはならない。
パーティに行くことを命令された時も、あくまで、仕事としてその役を演じきる。

にもかかわらず、双方にちょっとしたきっかけがあれば、一線を越えてしまうであろう緊張感があり、それが、なかなか映画的なロマンスとして、うまいシーンになっている。
そして、セリフも実にしゃれていて、こういう役をやらせると、グウィネス・パルトローは実にうまい。

トニーは、アメリカンで、中東から脱出してアメリカに帰って来た時、パルトローに、チーズバーガーが食べたいと言う。
アメリカ人の多くは、アメリカを離れると、無性にチーズバーガーが食べたくなるらしい。
日本でも、そういう世代は確実に増えているような気がする。

この映画は、エンターテインメントとして、実に良く出来ているが、ロバート・ダウニー・Jr.が演じるトニー・スタークという人物の孤独性、ポジティブに言えば、日常的な面ではダメだが、何でも自分で作るDIY精神の旺盛さが興味を引く。

どのみち、現代人は、彼のような性格を持たざるを得ないのだ。彼は、テーブルの上に置いた2つのモニターに向かい、人工知能と対話しながら作業をする。

彼にとって、対話の相手は、人工知能のロボットなのだ。
モニター画面でシミュレイトした映像を、そのまま空を切ってドラッグして、別のテーブルの上に移すと、そこにホログラムの立体映像が浮かび上がり、先程、モニター画面でシミュレートしたものが立体的なヴァーチャル・オブジェとして姿を現わす。

あとは、それをマシーンとして組み上げるだけだ。
今の技術では、これほど簡単にはできないとしても、ここで描かれていることは、それほど空想的な事ではない。

そのあたりの、まんざら嘘ではないテクノ環境を、あれこれと見せるところが、この映画のうまさであると思う。

第9地区 / District 9
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「第9地区」

この映画「第9地区」は、ピーター・ジャクソン製作、ニール・ブロムカンプ脚本・監督で、公開以来大いに話題を呼び、作品賞枠が10本に拡大された米アカデミー賞にノミネートされて一躍名を上げた異色SF作品。

南アフリカ、ヨハネスブルグ上空に出現した巨大宇宙船からの「難民」であるエイリアンたちが、被差別民的に暮らすスラム街、第9地区。

このエイリアンたちを、別の専用居住地区へ強制移住させるための現場監督を任せられた職員を主人公にして、フェイク・ドキュメンタリーのタッチで現実社会における人種隔離や差別、文化の衝突を風刺的に描きつつ、B級魂が炸裂するアクション・アドベンチャーになっていると思います。

テーマ、スタイル、エンターテインメントのユニークな融合と、映画好きの心をくすぐるディテールや笑える設定、描写山盛りのサービス精神に思わず顔がほころんでしまう快作だ。

エイリアンと人類が共存する世界といえば、エイリアンを(ヒスパニック系の)移民になぞらえた「エイリアン・ネイション」を想起するのだが、この作品はもう、あからさまに、かつての南アフリカにおけるアパルトヘイト政策や、黒人たちの強制移住など、現実に起きた事件をなぞっていて、「エビ」と呼ばれて蔑まれている、エイリアンたちの人権なぞどこ吹く風という主人公の言動に、皮肉がパンチが効いていて面白い。

エイリアンの設定も、知能程度の高くない2級市民的な種族としていて、二重の意味で、被差別的な存在に置かれているあたりが、いいアイディアである。

彼らをコントロールする立場にあった、おそらく宇宙船や超絶兵器を使いこなす高等な種族が、事故か疫病でほとんど死滅したからこそ、辺境の星である地球で立ち往生する羽目になっているというわけだ。

謎の液体を浴びた主人公のDNAが変化をはじめ、「エビ」へと変貌してしまうあたりは「フライ」等へのオマージュだろうか。

今度は主人公の人権もなにもあったものじゃなくなり、当局に監禁され、実験台にされてしまう。
なぜ当局はそこまでするのか、といった動機付けの設定が、この作品で最高のアイディア。

エイリアンの持ち込んだ超絶的な武器、兵器類は、「エビ」のDNAで起動するので、人類は使用できないのである。
後半は、その設定を活かした大活劇になるのだが、あまり高尚ぶっておらず、良い意味で、なんでもありのB級展開である。

そういう部分がかえって清々しく、好印象のよくできた娯楽作品である。

SFチックな意味での避けがたいグロテスク描写が、ネックになって手を出さない人もいるかもしれないが、さしてハードなものではないので、よほどこういうのが苦手な人でなければOKなんじゃないだろうか。

グロ描写を理由に、この作品を避けるとしたら、ちょっともったいないと思うので、食わず嫌いをせず、手を出して欲しいと思います。