クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん

クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃんのレビュー・評価・感想

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クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん
10

クレヨンしんちゃんシリーズで1番泣ける映画

ぎっくり腰になった野原ひろしがエステに行くと体は治ったもののロボットにされてしまい、元の体のひろしを助けに行くという家族の絆を描いた映画です。家族内での父親の立場が低い中、ロボットになったことで疲れることなく、子供と遊び、家事や庭の掃除をして父親の立場も高くなり家族全員が喜びました。しかし、そこに愛はなくロボットではないひろしを求めるようになります。

特に感動する場面が2つあります。
1つ目は最後の腕相撲で本当の父親を決めるところです。父親としてのプライドのぶつかり合い、そして家族からの応援。どちらかのひろしを必ず失うという悲しい状況で、みさえは愛する夫のために応援し、しんのすけもロボットのひろしに気持ちがありつつも、本当のひろしを応援する姿に心が熱くなりました。ロボットのひろしは何も悪くないのに家族を失わなくてはならないというのもとても悲しくなります。

2つ目はしんのすけが無理やりピーマンを食べさせられている場面です。そこでひろしが「強制としつけは違う、自分からやるようにしないと意味がないんだよ!」と言い、子供を思いやる気持ちや子供を守る気持ちが感じられました。
普段立場が低いですが、いなくなってからわかる父親の存在、最後は能力やスペックではなく愛や絆、そして思い出を選んだ野原一家。感動し、考えさせられる素晴らしい映画になっています。

クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん
8

日本の父親「野原ひろし」に絶対に惚れる。

クレヨンしんちゃんファンなら誰もが「こんな父親が良いな」そう思わせてしまう程、男気と愛情に満ち溢れた主人公の父である野原ひろし。
今作はそんな野原ひろしにフォーカスした作品。

物語の内容は、とある休日に野原ひろしは主人公野原しんのすけと共に散歩をする。
デパートで見つけたロボットのおもちゃに親子揃って童心をくすぐられる。
テンションが上がってしまった野原ひろしはしんのすけを「合体」と称し肩車をしようとする。
その時、グキッ!と腰を痛める。そう、ぎっくり腰である。
妻であるみさえに怒られると意気消沈するも、仕事に影響が出ないようにと病院に向かうが、休診日。
もうダメだと落胆していると、クレヨンしんちゃん名物のナイスバディなおねいさんが現れる。
そのおねいさんが言うには、「鋼のような肉体を得られるエステ」をやっているそうだ。
美女には弱いひろし。その甘い誘惑に乗ってしまう。
しんのすけも同行しようとするも子供はダメだと帰されてしまう。
帰宅後、その事を母みさえにしんのすけが報告している所にひろしが帰宅。
家族は全員ぎょっとする。
なんとひろしの体は生身の人間ではなく文字通り鋼の体のロボットになっていたのだ!
エステに行ってロボットに変わってしまったと必死に訴えるひろしだが、主張も虚しく警察に通報されてしまう。
果たしてこのロボットひろしは本当にひろしなのか?はたまた偽物ならば本当のひろしはどこに?
こうして物語が始まります。

作者である臼井儀人が亡くなってからしばらくクレヨンしんちゃん離れしていた筆者である私だが、
昔から大好きな野原ひろしにフォーカスされているのでは見るしかない!と映画館に足を運び、見事に野原ひろしファンとしてこの世に復活しました。
野原ひろしの家族愛、そして男気がフルに今作では描かれており、
まだ野原ひろしの良さに気付いていないクレヨンしんちゃん新規ユーザーの方々も映画を見終わった頃には惚れてしまうのではないかと思う程の出来でした。
家族から本当にひろしなのか?と疑われとても良い気分ではないだろうに、それでも愛する家族の為と奮闘する父親野原ひろしは本当にかっこよかったです。

最後のシーンではクレヨンしんちゃんファンなら胸が熱くなる事間違いなしの
「男の約束」が登場します。
是非ぜひ野原ひろしを好きになってしまう今作をご覧ください!

クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん
9

ほっこり感動したい時に観てください。

今回の作品は、世の中の”お父さん”がターゲットになっています。作品を観た後は、家族の中でのお父さんの役割とは何なのかを考えさせられると思います。きっと、改めて妻や子供に愛情を持って寄り添いたいと思う事が出来るでしょう。
ざっくりとした内容は、人間とロボットの2人のひろしが登場し、どちらが本物の野原家の父ちゃんなのか?というストーリーです。ロボットだからといって心が無いわけではないという設定が、視聴者の心をグッと掴みます。どちらのひろしも家族に対する愛情が深い為、みさえ、しんのすけ、ひまわり、シロはどちらが“本物の父ちゃんだ”と簡単に言い切れなくなってしまいます。
見どころはやはり、最後の2人のひろしの腕相撲シーンだと思います。ロボットのひろしは圧倒的に強いはずなのに、結果的に負けることになります。「男の勝負に手加減はいらないよなぁ」と言っていたのにも関わらず、自ら負けることを選んだ心情には何が隠されていたのでしょうか。
面白かったシーンで特に印象に残っているのは、ロボットのひろしが仕事から帰宅した際に、しんのすけとひまわりに身体の仕掛けをいじられているシーンです。
感動するだけではなく、面白おかしいギャグも豊富に組み込まれているので、ほっこりしたい方にお勧めします。

クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん
10

深い作品

この映画には考えさせらる点がいくつかあります。特に私がこの映画を見て考えさせられたのが「ロボットに自分と同じ心が宿った時、それは自分と何が違うのか。」ということです。
本作品中では「ロボとーちゃん」という呼び名で物語が進んでいきますが、アニメ「クレヨンしんちゃん」というコミカルな作風もあってか「ロボとーちゃん」を「ロボット」として見ることは恐らくありません。非常に巧妙です。
ロボットと共に暮らしている内に人のような感情が芽生える、人と同じように見えてくる、という作品は枚挙に遑がありません。しかし本作では、「父親が改造されてロボットになった」という設定で物語が進みます。したがって冒頭から「ロボとーちゃん」=「野原ひろし」というインプリンティングがなされます。
適応力のあるしんちゃんはすぐにロボとーちゃんを受け入れますが、みさえはすぐには受け入れられません。ですが、視聴者の頭の中には「ロボとーちゃん」=「野原ひろし」と刻印付けされているので同情、かわいそう...などの感情がめぐることでしょう。その「野原ひろし」にとっては非常に逆境ともいえる状況ですが、家族を愛する「心」からだんだん家族として受け入れられます。この時点で「ロボとーちゃん」は視聴者にも完全に受け入れられ、また「ヒーロー」のようにも映ります。
そして物語は「転」を迎え、「ロボとーちゃん」=「野原ひろし」ではないという事実を知ります。ここで最初はしんのすけがどちらの「とーちゃん」に対しても肩入れすることなく、ニュートラルに両者との距離を置くことがまた巧妙です。そう、この後にはみさえと「とーちゃん」が再開するシーンがあるからです。ここで最初のみさえの描写が映えます。また、ロボットだから泣くことができない「ロボとーちゃん」の手に大粒の雨が落ちてくるシーンが美しく感じられます。
そして舞台は家へと戻り「ロボとーちゃん」と「とーちゃん」はどちらが本物の「野原ひろし」であり「父」であるか、子供とのコミュニケーションツールでもあった腕相撲を用いて、一家に「ロボとーちゃん」こそが真の「父」であることを誇示します。
物語は大詰めへと向かい、「とーちゃん」が囚われていた間に築いた、しんちゃんと「ロボとーちゃん」の思い出を最大の武器に黒幕を撃破します。ここでの段々原が黒幕に対し「あなたの罪は、人の心をおもちゃのように弄んだことです!」という台詞がかっこいいですね。
黒幕は誰の心を弄んだのか。それが民衆だったのか、家族だったのか、野原ひろしだったのか。いい余韻です。こうして、物語は最大の山場を迎えます。
先の激闘によって損傷し、死期を悟った「ロボとーちゃん」は「とーちゃん」に、先ほど家で誇示した家族の父の座をバトンタッチするため、腕相撲での決闘を申し込みます。結果、「野原ひろし」こそが一家の主たる「とーちゃん」となり、「ロボとーちゃん」はニセモノへとなります。いえ、「ロボとーちゃん」がニセモノになることを望んだのです。しかし、家族は「ロボとーちゃん」も「とーちゃん」であると受け入れます。それは野原ひろしも例外ではありませんでした。
私はここでは「ロボとーちゃん」と「とーちゃん」のアイデンティティが融合したかのように感じられました。死の間際という非常に不安定な状態で「ロボとーちゃん」と「とーちゃん」がお互いを「おれ」と呼び合います。物語の最初から野原ひろしだと思っていた人物と、本当の野原ひろしが一つの野原ひろしとなります。こうして、ロボットは壊れて動かなくなります。…と書くと違和感があります。もう一人の野原ひろしは絶命します。こう書かなければ違和感があるほど「ロボとーちゃん」は野原ひろしであり、人でした。
もし、あなたの完全なコピーが現れたとき、あなたの心は世の中に1つだけでしょうか。もし、あなたの完全なコピーが表れたとき、あなたこそが本物だという証明はなにが保証しますか。
こんなことを考えていると、家の中の掛け軸「色即是空」の文字が突然鮮烈に思い返されます。まさに「この世の万物は形をもつが、その形は仮のもので、本質は空であり、不変のものではない」。人の体でも、機械の体でもその形は仮…借りのものであり、本質はどこにでもあり、変わらぬことはないのでしょう。素晴らしい映画でした。