クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん

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クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん
10

深い作品

この映画には考えさせらる点がいくつかあります。特に私がこの映画を見て考えさせられたのが「ロボットに自分と同じ心が宿った時、それは自分と何が違うのか。」ということです。
本作品中では「ロボとーちゃん」という呼び名で物語が進んでいきますが、アニメ「クレヨンしんちゃん」というコミカルな作風もあってか「ロボとーちゃん」を「ロボット」として見ることは恐らくありません。非常に巧妙です。
ロボットと共に暮らしている内に人のような感情が芽生える、人と同じように見えてくる、という作品は枚挙に遑がありません。しかし本作では、「父親が改造されてロボットになった」という設定で物語が進みます。したがって冒頭から「ロボとーちゃん」=「野原ひろし」というインプリンティングがなされます。
適応力のあるしんちゃんはすぐにロボとーちゃんを受け入れますが、みさえはすぐには受け入れられません。ですが、視聴者の頭の中には「ロボとーちゃん」=「野原ひろし」と刻印付けされているので同情、かわいそう...などの感情がめぐることでしょう。その「野原ひろし」にとっては非常に逆境ともいえる状況ですが、家族を愛する「心」からだんだん家族として受け入れられます。この時点で「ロボとーちゃん」は視聴者にも完全に受け入れられ、また「ヒーロー」のようにも映ります。
そして物語は「転」を迎え、「ロボとーちゃん」=「野原ひろし」ではないという事実を知ります。ここで最初はしんのすけがどちらの「とーちゃん」に対しても肩入れすることなく、ニュートラルに両者との距離を置くことがまた巧妙です。そう、この後にはみさえと「とーちゃん」が再開するシーンがあるからです。ここで最初のみさえの描写が映えます。また、ロボットだから泣くことができない「ロボとーちゃん」の手に大粒の雨が落ちてくるシーンが美しく感じられます。
そして舞台は家へと戻り「ロボとーちゃん」と「とーちゃん」はどちらが本物の「野原ひろし」であり「父」であるか、子供とのコミュニケーションツールでもあった腕相撲を用いて、一家に「ロボとーちゃん」こそが真の「父」であることを誇示します。
物語は大詰めへと向かい、「とーちゃん」が囚われていた間に築いた、しんちゃんと「ロボとーちゃん」の思い出を最大の武器に黒幕を撃破します。ここでの段々原が黒幕に対し「あなたの罪は、人の心をおもちゃのように弄んだことです!」という台詞がかっこいいですね。
黒幕は誰の心を弄んだのか。それが民衆だったのか、家族だったのか、野原ひろしだったのか。いい余韻です。こうして、物語は最大の山場を迎えます。
先の激闘によって損傷し、死期を悟った「ロボとーちゃん」は「とーちゃん」に、先ほど家で誇示した家族の父の座をバトンタッチするため、腕相撲での決闘を申し込みます。結果、「野原ひろし」こそが一家の主たる「とーちゃん」となり、「ロボとーちゃん」はニセモノへとなります。いえ、「ロボとーちゃん」がニセモノになることを望んだのです。しかし、家族は「ロボとーちゃん」も「とーちゃん」であると受け入れます。それは野原ひろしも例外ではありませんでした。
私はここでは「ロボとーちゃん」と「とーちゃん」のアイデンティティが融合したかのように感じられました。死の間際という非常に不安定な状態で「ロボとーちゃん」と「とーちゃん」がお互いを「おれ」と呼び合います。物語の最初から野原ひろしだと思っていた人物と、本当の野原ひろしが一つの野原ひろしとなります。こうして、ロボットは壊れて動かなくなります。…と書くと違和感があります。もう一人の野原ひろしは絶命します。こう書かなければ違和感があるほど「ロボとーちゃん」は野原ひろしであり、人でした。
もし、あなたの完全なコピーが現れたとき、あなたの心は世の中に1つだけでしょうか。もし、あなたの完全なコピーが表れたとき、あなたこそが本物だという証明はなにが保証しますか。
こんなことを考えていると、家の中の掛け軸「色即是空」の文字が突然鮮烈に思い返されます。まさに「この世の万物は形をもつが、その形は仮のもので、本質は空であり、不変のものではない」。人の体でも、機械の体でもその形は仮…借りのものであり、本質はどこにでもあり、変わらぬことはないのでしょう。素晴らしい映画でした。