サザンオールスターズ / Southern All Stars

サザンオールスターズとは、タイシタレーベル所属の五人組ロックバンドである。1977年から活動しており、楽曲は夏、海をテーマとした楽曲が多い。これはバンドのボーカルで大半の楽曲の作詞作曲を手掛ける桑田佳祐が神奈川県の海水浴スポットとして有名な茅ヶ崎出身ということが関係している。夏や海をテーマとした楽曲が多いが、その曲調はロック、バラード、ヒップホップ、ジャズと幅広い。また楽曲にラブソングや男女のエロティックを題材としたものが多いのも特徴の一つである。活動初期は桑田が洋楽から影響を受けていたことから、和洋折衷の楽曲を数多く発表しており、桑田自身も「邦楽と洋楽の融合を目指していた」と発言している。しかし活動後期になるに従って、桑田曰く「日本人ミュージシャンとしての意識が強くなった」日本の邦楽的な歌謡曲的テイストの曲が多くなっている。数多くの楽曲で様々な賞を獲得しており、日本国内でも影響力の非常に強いバンドのひとつである。

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サザンオールスターズ / Southern All Stars
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サザンオールスターズの魅力について。

「サザンオールスターズ」というバンドを知っていますか?
若い方だと「聞いたことがある」「親世代が歌っているので知ってる!」「UNIQLO の人や!」というのがほとんどかも知れませんが、日本のみならず、世界の人たちにも知られているほどのビッグスターなんです!

これを書いている私は歳の差婚をしているせいか、10代の子供から70代の夫、自身の親世代にあたる80代まで幅広く楽曲を聞いて楽しんでいます。そのなかで感じたことを書いていこうと思っています。

サザンオールスターズ(以下サザン)は桑田佳祐、原由子(原坊)、関口和之(ムクちゃん)、松田弘、野沢(毛ガニ)秀行の5人組です。2001年に大森隆志が脱退してからは、新しいメンバーを入れないでやっています。

「サザンといえば桑田佳祐しか知らない」「知っていても桑田の妻の原由子までしか知らない」という人も、多いのではないでしょうか?私の周りでもそんな感じです。でも日本を代表する凄いミュージシャンなのです。

サザンオタクと思われる一部のファン以外でも、楽曲は幅広く知られており、2000年1月26日に発売された「TSUNAMI」 は293万枚以上リリースされています。みなさんも聞いたことがあるのではないでしょうか?
この楽曲は、発売当時「サザン史上最大の売り上げ」を記録したメガヒット・ナンバーで、初のレコード大賞を受賞した20世紀最後のシングルです。セールス記録とは対照的に、歌詞は「桑田佳祐の極めてパーソナルな想いが綴られているのも感動的」と、CDジャーナルデータベースでも言われています。
私も2000年には毎日のように歌っていた記憶があります。そして、モノマネする人も多数いたのも覚えています。
ファンじゃないと公言する人々の間にも、桑田佳祐の話題がいつも以上に出ていました。
どうしても「エロと文学の融合」と言われるサザンですが、「ほら、真面目にやったらちゃんと歌えんねん!」と、世間から評価されていました。
特に桑田佳祐と世代が近い、もしくは上の世代からは、そう評価されていたような気がします。

また「TSUNAMI」の楽曲は語り継がれる名曲ですが、2011年3月11日の東日本大震災を機に、桑田佳祐自身からは歌われなくなりました。
『桑田佳祐のやさしい夜遊び』でも、「いつか悲しみの記憶が薄れて、この曲を歌ってくれという声があれば、復興の象徴として歌える日がきたらいい」と語っています。しかし、東日本大震災の遺族からは「『TSUNAMI』を流してもいい」との声も上がっていきます。そんな中2017年、ラジオ福島で「TSUNAMI」が震災後初めて流れました。

またサザンといえば「いとしのエリー」もいい楽曲のひとつです。デビュー曲の「勝手にシンドバッド」、「気分しだいで責めないで」、1枚目のアルバム『熱い胸さわぎ』、そして「いとしのエリー」です!
この当時のサザンはパワフルかつコミカルで、エッチなサウンドかと思われていました。しかし「いとしのエリー」で「本格的なバラードも歌えるんだ、書けるんだ!実力派だ!」と世間で大きな話題となったのです。ちなみに「ドリフターズのいかりや長介に気に入られた」という逸話から、「ドリフターズに誘われた」などという話がありますが、それは話を盛りすぎているだけです。
ここまで、サザンオールスターズの初期の話をしました。

サザンオールスターズというのは桑田佳祐だけではありません。外のメンバーたちにも焦点を当てていこうと思います。
これを読んでいるみなさんのほとんどは、サザン=桑田佳祐、というイメージかもしれません。
しかし先ほども述べましたが、サザンのメンバーは桑田佳祐をはじめ5人です。

まずは、桑田佳祐(以下桑田)から詳しく紹介します。
1956 年 2 月 26 日生まれ、神奈川県茅ケ崎市生まれ。独特の歌声は学生時代にダミ声が流行しており、桑田も声を潰そうと思った結果生まれたものです。声質をより近づけるためにウイスキーを飲み、自宅の部屋にこもって枕に顔を押し付けて大声を出し続ける、といったことを行っていたのです。
あの早口の歌い方も独特です。アマチュア時代および活動初期は、日本語と英語のダブルミーニングの歌詞や、早口な歌い方を取り入れていました。そのせいか、桑田の早口の歌い方に視聴者が「歌詞が判らない」と苦情を寄せたことが、テレビの音楽番組において歌詞の字幕スーパー(テロップ)が流される端緒であると噂されています。
順調に思えた歌手人生でしたが、2010年の7月に食道がんが見つかり、手術。無事手術成功し、大晦日の紅白歌合戦で復活しました。

2014 年には紫綬褒章も授与されています。また1995年4月1日から、毎週土曜日にTOKYO FMで『桑田佳祐のやさしい夜遊び』という番組を放送しています。興味のある人は1度聞いてみてください。
ソロ活動も有名で、クリスマスソングの定番となっている「白い恋人達」はサザンの楽曲ではなく、桑田のソロの楽曲です。

続いて原由子についてです。桑田佳祐の妻だとご存じの方も多いのではないかと思います。
原由子(以下、原)は1956年12月11日生まれで、神奈川県横浜市出身。愛称は原坊(ハラボー)。日本を代表する女性ミュージシャン、シンガーソングライターであり、サザンの紅一点のメンバーです。キーボードとボーカルを担当しています。
桑田は青山学院大学除籍ですが、原は青山学院大学の文学部を卒業しています。
1981年に「I Love You はひとりごと」でソロ活動をスタートさせ、サザンと併行して活動しています。単独コンサートや他のアーティストに楽曲提供を行いながら、エッセイ本も出版。CMやトーク番組、ラジオなどにも出演しています。

また、前述のとおり桑田の妻でもあります。
桑田が1年先輩で、原とは先輩後輩の仲。1975年、大学の音楽サークル“BetterDays”を結成します。2人が恋愛関係に発展したのは、結成1年前の頃だったといいます。

アマチュア時代のサザンは下北沢にあった“下北沢ロフト”で活動しており、いつも2人はジーパン姿でした。原は「原坊」と呼ばれていますが、この頃はメンバーみんなが「〇〇坊」と呼ばれ、桑田も「桑坊(クワボウ)」とよばれていたそうです。
当時は歌謡曲が全盛期でしたが、サザンはその風潮とは一味違う個性的なロックミュージックを展開しました。
すると桑田の作る曲と歌声に人々は魅了され、サザンは一躍人気になりました。
1977年、「ヤマハ」が主催したコンテスト“EastWest”に入賞し、桑田はベストボーカル賞に輝きます。そして、「ビクター」のレーベル“Invitation”からメジャーデビューが決定しました。
2人は出逢った直後、このように人生を大きく変える出来事を経験しています。

2021年8月13日の『おとなの週末Web』で、2人の結婚に関するエピソードから、印象深いものを紹介します。
桑田が25歳頃に、音楽評論家の岩田由記夫さんと道玄坂の喫茶店でコーヒーを飲んでいた時のことでした。
岩田由記夫さんが「なぜ原由子さんを選んだのか」と尋ねると、桑田はこのように答えたといいます。

“桑田佳祐は、ひょいとかがんで白い小石をひとつ、拾ってぼくに渡してくれた。答えが白い小石とは謎かけなのか、ぼくはキョトンとして、その小石をつまんだ。その表情を見て、桑田佳祐は“でしょう!”と言った。
ほとんどの女性は、俺がこうやって何でもない小石を拾って渡しても、キョトンとするだけだと思うんです。俺がこうやって小石を渡す。すると彼女は、桑田さんがくれたものなら、何か絶対に意味がある。そう思って、小石を大切に持ってくれる人なんですね。世の中に多くの女性がいても、小石を大切に持っていてくれるのはハラボーだけなんです。”
この記事で桑田の思いに感動し、同時に原の人柄も深く伝わったのではないでしょうか?

また2010年に桑田に食道がんが発覚した際、懸命にサポートしたことも知られています。
原の著書『あじわい夕日新聞~夢をアリガトウ~』に収録されている、桑田が綴った「あとがき」にも、その時の気持ちが書かれています。
「彼女はずっと僕のことをフォローしてくれて、とても有難かったし、時には“申し訳ないなぁ”という想いもあった」「そもそも、彼女に一番迷惑を掛けたのは僕だし、そんな手負いの亭主を抱えつつ、励ましながらの日々だったわけである。僕の面倒をみるだけで体力的にもキツかっただろう。でも彼女は“痛いの痒いの”をあまり言わない方なので」と原への感謝の言葉の中に、人間性についても述べています。
一方、原は「術後初めて声を出した、歩いた、ご飯を食べた、ついに歌ったとか、そんな事一つ一つが感動でした」と桑田の体調に常に目を配っていたり、病気後初の桑田のソロツアーに「実は私も自称雑用係として随行しています」と、夫に寄り添うことを楽しむかのように記述したりしています。派手でわかりやすい言葉はなくとも、夫を気遣うやわらかな文章が、この著書
にはちりばめられています。

次にサザンのベーシストであり、ウクレリアンの「ムクちゃん」こと関口和之です!
1955年12月21日生まれで、新潟県北蒲原郡水原町(現阿賀野̪市)出身。原の一つ先輩で、青山学院大学文学部を卒業しました。1978年にサザンのベーシストとしてメジャーデビューを果たし、1986年にアルバム『砂金』でソロ活動を開始します。
1991年にハーブ・オオタと出逢ったことをきっかけにウクレレの活動を始め、ハワイでウクレレのイベントを開催しています。また、『桃太郎電鉄シリーズ』などのゲーム音楽の作曲を手掛けています。
ミュージシャンとしての活動だけでなく、漫画やエッセイの出版、テレビドラマやラジオの出演など幅広く活動しています。
最後に松田弘です。
1956年4月4日生まれで、宮崎県出身。宮崎県立宮崎大宮高校中退。サザンの名ドラマー&コーラスです。
サザンのメンバーの中で唯一、原が産休に入ることが結成の動機となった、「KUWATA BAND」 のメンバーでもあります。

桑田は自身の著書『ロックの子』で、「とにかく歌心ってもんをとってもわかってる感じのドラマー」「あいつは貪欲なの、何に
対しても」「サザンの本島のリーダーは彼じゃないかなってのは僕は思うんですよね」と綴っています。
また1978年に松田が一時郷里に引き返したことがあった際、「ひきとめたのね、一所懸命。車の中でも口説いたの。もっとやってくれ!って」と同著の中で語るほどの人物です。声も素敵で、スイートボイスと評されています!

野沢秀行はサザンのパーカッション担当です。愛称は“毛ガニ”。1954年10月19日生まれで、東京都出身、栃木県育ち。佐野日本大学高校を卒業。個人の意見ではありますが、「サザンには、毛ガニさまのパーカッションがないとサザンではない」と感じています!
実際に桑田は「野沢の叩くコンガでありボンゴは、世界で誰にも真似ができない」「毛ガニの音は毛ガニにしか出せない」「パーカッションの重要性を、私はほとんど彼から教わった」と述べており、パーカッショニストとしての野沢へ厚い信頼を寄せています。

最後に、サザンには欠かせない人物がもうひとりいます。桑田さんの実姉である岩本えり子さんは、サザンの楽曲の英訳などに参加されていました。真偽は不明ですが『いとしのエリー』のモデルではないかといわれたこともあります。残念ながら2008年に癌で他界されていますが、私はもうひとりのサザンメンバーと呼んでもいい方だと思っています。

ちなみに、サザンオールスターズの名前の由来は、幼馴染であり同級生だった音楽評論家の宮治淳一さんが、間に合わせ的に作ったものです。
そんな粒ぞろいのサザンについて、興味を持っていただけましたか?
少しでも聞いてみたい、久しぶりにカラオケで歌ってみようかな、と思っていただけたら幸いです。