進撃の巨人 / Attack on Titan

『進撃の巨人』(しんげきのきょじん)は、諫山創による日本の漫画作品。『別冊少年マガジン』(講談社)で2009年9月9日発売の10月号(創刊号)から連載を開始し、2021年4月9日発売の5月号をもって完結した。略称は「進撃」など。
突如出現した「巨人」により人類は滅亡の危機に追いやられた。生き残った人類は「ウォール・マリア」「ウォール・ローゼ」「ウォール・シーナ」という巨大な三重の城壁を築き、壁の内側で100年の平和を実現した。
しかし、突如として出現した「超大型巨人」と「鎧の巨人」により壁は破壊され、100年の平和は終わりを迎える。
壁の外の世界を夢見る主人公の少年、エレン・イェーガーは壁が破壊されたことにより「ウォール・マリア」の中に侵入してきた巨人に母を目の前で食い殺されてしまう。その光景を前に、エレンは母の敵である巨人を「一匹残らず駆逐する」ことを誓う。
ダーク・ファンタジーという位置づけの本作だが、ファンタジー要素は少なく、科学やそれに沿った軍事など、現実的な面が多い。
国内外から人気を得ており、2010年12月には既刊2巻の累計のみで発行部数が100万部を突破し、アニメ放送開始後はさらに売上が伸び、同年の8月初頭時点で10巻までで2300万部を突破。2019年12月時点では1億部を突破している。

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進撃の巨人 / Attack on Titan
10

そこには善も悪も正義もない。生きた軌跡を辿る物語

──あの日、人類は思い出した。奴らに支配されていた恐怖を…鳥籠の中に囚われていた屈辱を…。

人を食べる巨人、そのインパクトと残虐さと恐ろしさにまず目がいく進撃の巨人という作品。
前半は人類VS巨人という構図や、巨人や壁の中の謎に面白さを見出し、そして母を目の前で食べられたエレンの憎しみに共感し、応援しながら読んでいた人も多いと思う。わたしもそうだった。
徐々に明かされる巨人の力を持つエレンの謎、巨人になれる人間や同期の裏切りと絶望…。中盤になると物語は加速的に展開していき、いつの間にか、人類VS巨人という構図から、人類VS人類という構図に変化していた。
この時点でわたしは昔離脱してしまった。
なぜなら、あまりにもリアリティの高い「戦争」であり「政争」だったからだ。
憲兵団との戦いになる頃には、104期生は「人間」を殺すことへの葛藤と業と覚悟を背負わざるを得なく、その苦しみがまざまざとキャラクターに影を落とす。倫理がありながら、策士でメンタルの強さがあるゆえに輝くアルミン、大義が見いだせずに憔悴していくジャンなど、それぞれの性格が現れたリアルな「人を殺すことへの向き合い方」に「人間味」がありすぎて疲れてしまうのだ。
巨人を殺すだけの頃は良かった。シンプルだった。自分たちのまっすぐな覚悟と大義と決意があり、恐怖を乗り越えようと抗い戦う彼らを応援しているだけでよかった。
けれど、進撃の巨人は壁を乗り越える熱い物語ではなかったのだ。
壁の中に生きる人類たちが、より良く生きるために潰し合いに発展してしまう、ヒューマンドラマだったのだ。その時のわたしはそう思った。

アニメ化されたことを機に、数年ぶりに読み返してみると、その印象はまた覆される。
人間同士の戦争や潰し合い、それはたしかにある。裏切りも、政治も、ままならない大義のないぶつかり合いもあった。けれどそれを乗り越え、海に出た時に見たエレンと、その先にある世界。
初めて、エレンは主人公では無いのかもしれない、という気付きがあった。
わたしはエレンの「自由になりたい」「抑圧されたくない」「自分を虐げ、自由を奪うものを駆逐したい」という考え方に、大変共感しながら読んでいた。けれど、エレンはひどく危ういと思う。

後半の始まりは、壁の中である「パラディ島」ではなく、外の世界に広がる「マーレ」から始まる。そこでは、壁の中が島であること、名前がついていることが初めて明かされ、マーレにも壁の中があり、おびただしい数の人が生きていた。
狭い世界から、広い世界への転換。そして、エレンという男の、調査兵団の「侵略者」という描かれ方。

諫山先生には本当に脱帽する。
ここまで壁の中の人類への共感性や応援したいという気持ちを煽りながら、エレンに不穏さをチラつかせ、全ての立場を逆転させたのだ。
アルミンの超大型巨人によって、踏み潰され、蹂躙されるマーレの人々は、ベルトルトによって蹂躙された壁の中の人類と同じだった。あの日のエレンと同じだった。そして、エレンが蹂躙している描写もある。

進撃の巨人はループが非常に良く出来ている。
物事が巡り巡って繰り返されているのだ。
それはパラディ島とマーレもそうだし、単行本の表紙になっている場面もそうだし、戦士として育てられたライナーが悪魔は人だと気づき、戦士に憧れたガビも同様にそれに気づくことも、憎しみによってサシャを殺したガビがその憎しみでカヤに憎まれることもそうだ。

「わたし達はずっと……同じことを……同じことを繰り返してる……」

ガビのこの言葉のとおり、物語では繰り返し憎しみと暴力の連鎖が描かれている。

サシャの父親は、「生きる者を殺して喰らう”森”の生き方、そしてその森はただ、サシャたちが暮らす森だけの話ではなく、全世界が他人を殺して生きていく森なのだと気づいた」と語る。
故に、この憎しみの連鎖を大人が止めなくてはならない、とナイフを手放す。

繰り返される人類の負のループの答えが、これなのだとわたしは思う。

加速していく展開、己の自由のために人類の虐殺に踏み切るエレン、人類に対しての諦念から繁殖機能を消そうとするジーク、それらを止めたい調査兵団たち。複雑に絡み合う謎と思惑の中で、最後に残った答えは「森から抜け出す」こと。

ミカサが選んだ決断、エレンが選んだ決断、始祖ユミルの苦しみ。
エレンを抱きしめるミカサの微笑みと結果は、サシャの父の答えと重なる。

愛と欲望、自由、憎しみの連鎖、そこから抜け出すこと。
それを丁寧に描きながらも、諫山先生の鋭い皮肉性、つまり現実の人間をあまりにもリアリティな肉付けを持って描く結末には感嘆のため息と、一抹の虚しさが残る。

一見、平和な世界が訪れ、希望に満ち溢れたように見えても、時を経るうちに、やがて人類はまたぶつかり合い、戦争を起こし、愚かなことを繰り返していく。
それが人間であり、人類なのだ。

答えを示しておきながら、現実を描く。
諫山先生の手腕にはため息しか出ない。

進撃の巨人は愛の物語でも、正義の物語でも、誰かが勝つ物語でもない。エレンが主人公でも、きっとない。

この世界が辿った歴史を、ただエレンという男を取り巻く視点から、事実を描いただけだったのだ。
わたしはこのマンガを心底恐ろしく思い、そして陶酔している。
この物語は、ただ、そこにあるだけだった。