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Aki Takahashi
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Aki Takahashi

Aki Takahashiのレビュー・評価・感想

悪の教典(映画)
7

「思考」を殺し「記憶」を生かす。殺しの理由を考えたら負け!?サイコキラー・蓮実聖司の狂気

映画「悪の教典」は2012年公開の邦画である。
血糊が噴き出すほどの暴力描写があるため、レイティングは「R15+」となる。
視聴の際には注意して頂きたい。

晨光学院高校の英語教師で2年4組の担任・蓮実聖司は、生徒からは「ハスミン」と愛称で呼ばれ、絶大な人気と信頼を誇る「善良な教師」である。
学校を悩ませる、集団カンニング問題、学校の裏サイトといじめの関係、いじめられている生徒の父親からのクレーム対応、教師と生徒の淫行問題などに関心を寄せ、解決に臨む姿すら見られる。
しかし、その「善良な姿」は全て「都合よく殺人を犯すため」のフェイクにすぎない。
彼は、14才の冬、それよりもずっと前から、罪悪感を抱くことなく殺人に手を染めることができる生まれながらの「サイコキラー」であった。
決して用心を怠らず、犯人が蓮実であるとわからないように、着実に次から次へと人々を手にかけていく。
そんな彼の「テーマソング」は「三文オペラ」の劇中歌「メッキー・メッサーのモリタート」。
劇中ではこれをジャズアレンジした「マック・ザ・ナイフ」が要所で流れ、蓮実も時折それを口ずさむ。
「誰にも知られないように殺人を重ねてきたメッキー・メッサー」。
しかし、ある時、ほんの小さなミスで蓮実がとある生徒を殺したことが女子生徒に感づかれてしまう。
その小さな綻びを抹消するべく、彼はその犯行を知っているであろう全ての者を己の犯行ごと葬り去ることにした。
こうして、文化祭の準備で賑わいを見せる夜の学校は、無辜の羊を一匹残らず狩りつくすまで終わらない血濡れた惨劇の舞台と化す。

監督と脚本は「着信アリ」(2004年)映画「クローズシリーズ」(2007年、2009年)「土竜の唄シリーズ」(2014年、2016年、2021年)などの三池崇史氏が務めた。
時に物議をかもすほど鮮烈な暴力表現を伴う作品を扱う三池氏は「バイオレンスの巨匠」と称されることもある。
また、極道や不良など「今時流行らない、鼻つまみ者」を描いた作品に多く関わるためか、彼の作品はどこか寂れたレトロな空気を帯びている。
この度紹介する「悪の教典」も例外ではなく、ひび割れたレコード、60年代に流行ったジャズのスタンダードナンバー、香港映画を思わせる煩雑とした文化祭の会場で行われる殺戮など、三池作品の特徴がふんだんに盛り込まれている。

稀代のサイコキラー蓮実聖司を演じるのは伊藤英明氏。
伊藤氏は2012年の邦画実写映画興行成績第1位を記録した「BRAVE HEARTS 海猿-UMIZARU-」にも出演し、同じ年で「命がけで命を救う役」と「遊びのように命を奪う役」のギャップを見せた。

また本作品は貴志祐介氏の同名小説を原作とする。
小説「悪の教典」は第144回直樹三十五賞の候補にあげられ、2011年本屋大賞にノミネート、第1回山田風太郎賞を受賞した。
貴志氏の著書は映像化されているものも多く、映画「青の炎」(2003年)では蜷川幸雄氏が監督と脚本を、二宮和也氏が主演を務めた。
映像化に差し当たっては貴志氏がカメオ出演していることも多い。
「ISOLA 多重人格の少女」(2000年、小説原題:十三番目の人格 ISOLA)「黒い家」(1999年)フジテレビ系テレビドラマ「鍵のかかった部屋」(2012年、小説シリーズ名:防犯探偵・榎本シリーズ)にも出演している。
無論、「悪の教典」も例外ではない。

原作者のカメオ出演の他、2012年当時は「若手」として扱われていたが、2023年に至っては「注目の的」と言われるようになった俳優たちが、生徒役で多く出演しているのも見どころの一つだろう。
終始、蓮実聖司の正体について疑念を抱く少女の片桐怜花を二階堂ふみ氏が、片桐怜花とは別のルートを使い蓮実の正体に迫る少年早見圭介を染谷将太氏が演じている。
他にも、林遣都氏、工藤阿須加氏、伊藤沙莉氏、浅香航大氏、松岡茉優氏、岸井ゆきの氏などといった俳優の若き姿が見られる。
生徒の他にも教師役に高岡早紀氏、山田孝之氏、吹越満氏など錚々たる顔ぶれが揃う。
原作者・貴志氏や、その後も活躍を続ける俳優たちを探すのも一興だ。

この映画で最も印象的なのは、主人公・蓮実聖司の「典型的なサイコパス」ぶりだろう。
伊藤英明氏の圧倒的な演技力もあいまって、その狂気に抗いがたい魅力を感じる。
表向きにはあくまでも「善良な人間」を演じる蓮実と、その裏で誰にも気づかれないように殺人の罪を重ねる「無邪気な悪意を持つ人間」蓮実のギャップ、そして惨憺たる文化祭の夜には、日常の学校では善良で饒舌だった蓮実が冷酷無比で無口な「狩人」と変貌する様は圧巻だ。

通称「サイコパス」と呼ばれる反社会性パーソナリティ障害を持つ人間は、「共感性」「道徳心」「良心」に欠ける一方、自身の目的を達成するために「良識的な人物を演じる」傾向もあるという。
その上で蓮実は、猟奇殺人を繰り返す「サイコキラー」である。
即ち「殺すこと(或いは、殺しを続けられる環境を作ること)」を主目的として、行動する。
「生徒に好かれる先生を演じること」さえ、彼にとっては都合の良い殺人の舞台を整える支度にすぎないのだろう。
しかし、彼が殺しを続ける真の目的は劇中では一切語られない。
先述の通り「快楽によるものではない」と否定しているものの、それ以外は一切が不明だ。
尤も、彼のような「生まれながらのサイコキラー」の目的を推し量ることは常人には不可能かもしれない。
それを印象付けるのは、毎朝蓮実の自宅近くにやってくる2羽のカラスを、北欧神話に登場するワタリガラスのフギンとムニンに例えるシーンだろう。

フギンとムニンは北欧神話において主神とされる、戦いと死の神オーディンの眷属だ。
彼らは日ごと、世界中のあらゆる場所を飛んで回り様々なことを見聞きする。そしてオーディンの朝食の時間に戻ってきて、その日見聞きしたことの全てを彼に伝える。
この2羽のカラスのおかげでオーディンは世界中のすべてを知ることができたと言われている。

劇中でも語られるが「フギン」は「思考」を、「ムニン」は「記憶」を意味する。
蓮実はそのうち「フギン」と名付けたカラスを殺すのだ。
無論「ムニン」も殺そうとするのだが、彼はそれをやめた。
蓮実は「思考」を殺し「記憶」を生かしたのである。
劇中では蓮実が「夢を見て目を覚ますシーン」が多い。その夢は大抵、彼の「殺しの記憶」を反芻したものとして描写される。
彼にとっては「記憶」が重要なものであり、「思考」など取るに足らないものなのかもしれない。
この描写は観客に「蓮実聖司が殺しをするのに特別な思考プロセスは存在しない」と訴えると同時に、蓮実の狂気は「彼にとっての正常であること」を印象付ける効果的なものとなっている。
こうした「典型的なサイコパス(サイコキラー)」の描写は観劇中目をそむけたくなるほどの残酷さがありながら、同時に目が離せないほど蠱惑的でもある。

一方、原作小説には描かれているが、映画では省略されたために説明不足を感じる点が見られる。
特に蓮実の経歴に関しては顕著だ。
サイコキラーであることを理由にアメリカで国外追放を告げられたにもかかわらず、日本へ帰国後、ほとんど間を開けず教師になっている理由にはまるで説明がない。
蓮実が教師として採用された理由も、教師という職業を選んだ理由もわからない。
また、他の教師と生徒の淫行は咎めるが、蓮実自身もまた女子生徒とふしだらな関係を築いていることにも説明がない。
「己の利益を優先し、人を貶めることを厭わないサイコパス」と考えれば不自然ではないかもしれないが、原作小説では蓮実が教師になった理由はもちろん、自身が担任を務めるクラスに「容姿の優れた女子生徒を集めたこと」が描かれているため、その描写もより自然なものとなる。
そのため、登場人物の明確な背景や心理描写からストーリーを楽しみたい人にはオススメしがたい。
また、原作小説と映画では人物の描写が大きく異なる点にも注意が必要だ。
原作小説の登場人物のうち数名は映画には登場せず、別の登場人物に役割を統合させられているものがある。
映画でのキーマンとなる釣井正信は原作では、陰鬱な雰囲気を纏う「数学の教師」であり、原作には「八木沢克也」という「物理教師でアマチュア無線部顧問」が登場する。映画は八木沢が登場しない代わりに釣井がその役割も担っているわけだ。
他にも原作で「惨劇の夜」の宿直を務める教師園田勲が登場せず、その役割を柴原徹郎が勤めるなど、物語の進行が大きく異なる。
よって原作小説に忠実な実写映画を求める人にもオススメはしにくい。
なお「原作の方が緻密で面白い」というようなレビューもちらほらと見られるため、単なるバイオレンス作品やサイコホラーではなく、ミステリー要素もふんだんに含む作品を好むのであれば、この映画は観ずに原作小説を読む方が楽しめるだろう。

とはいえ、映画版にも細やかな伏線が張り巡らされている。
それも蓮実の正体を知らない、無邪気な高校生の日常の中に、だ。
その伏線は悲しくも惨劇の夜に回収され、脚本の「後味の悪さ」に拍車をかける。
この「サイコホラー特有の厭な感じ」を好む人には、かなりオススメできる。

そしてやはり主演伊藤英明氏の「怪演」は見ごたえがあるし、三池作品らしい派手なバイオレンス描写の他、やや下世話なコメディ要素も含まれ、惨劇の夜のシーンですら、ふっと肩の力が抜ける瞬間がある。
サイコキラーの思考プロセスを考えたら負け。
何ひとつスカッとしない後味の悪いバイオレンス映画「悪の教典」、その筆舌尽くしがたい魅力は一見の価値ありだ。