ザ・フォーク・クルセダーズ

ザ・フォーク・クルセダーズのレビュー・評価・感想

レビューを書く
ザ・フォーク・クルセダーズ
8

京都発、日本版「フォークソング」の起点となった「フォークル」

フォーククルセダース(略して、「フォークル」)は、加藤 和彦さん、北山 修さん、はしだ のりひこさんで一躍有名になったフォークソンググループです。
昭和42年ですが、「帰って来たヨッパライ」で実質的なスタートを切りました。
加藤 和彦さんと北山 修さんは、それぞれ京都でフォークソンググループを持っていました。
このフォーククルセダースは、学生(加藤さんは龍谷大学 北山さんは京都府立大学)のころから有名でした。
彼らに目をつけたのは、東芝EMIです。
テレビ全盛期に入ったころです。お笑いもまだ未完成で、ミュージシャンと言っても、大手の「渡辺プロダクション」がその多くを抑えていたから、完全な独立系である「フォークル」は、このころ進出してきた大手電機メーカー傘下の音楽グループ企業は、このフォークルをひそかに着眼していました。
東芝EMIは、なんとかフォークルとの専属契約を果たします。
でも、「どうせ売り出すなら、もっと”笑い”とれる人間を、くっつけてみたら?」ということで、同志社大学でミュジシャンをしていたはしだ のりひこさんを加えたトリオでの売り出しを企画します。
加藤さん、北山さんのグルーㇷ゚は、「イムジン川」に代表されるような、差別問題を取り上げたフォークソングを意図していました。
ところが、これではちょっと”暗い”と指摘されて、「帰ってきたヨッパライ」を世間にリリースすることにしたのです。
レコードの早回しとかで出てくる「アンニュイ」な歌声が、当時の若者には、受けました。
「オラは死んじまっただ、、、天国見に行ったダ、、、天国良いとこ、一度はおいで、酒は旨いし、ネエちゃんはキレイだ、、、ワア、ワア、ワア、ワア、、、」このフレーズ、ビートルズの「Ya、Ya、Ya」をもじったものです。
フォークソングにパロデイを加えて、”笑い”とることに徹しました。
果たして、彼らのプロットは、大変成功しました。
ただ、大学生までの「限定ユニット」と約束していたので、わずか1年間で”解散”となってしまいました。
これ以外にも、メンバー間で意思疎通がうまく行かなかったりして、惜しい解散となったのですが、はしだ のりひこさんは、解散後、「はしだ のりひことシューベルツ」とか、「はしだ のりひことクライマックス」で時流に乗りました。
加藤さんは、時代におもねないで、若手発掘に尽力します。サデスチック・ミカバンドで始まり、のちにYMOの登場を成し遂げました。
でも、加藤さんと北山さんは、解散のとき、「心の空白」に悩まされます。はしださんとの別れを悔みました。
そこで、「あのすばらしい愛を、もう一度」という曲をリリースします。これは、「はしだ のりひこさんとの、セッションを、もう一度」ということを暗喩した、パロデイです。
もうちょっとグループ続けたら、もっと受けたのですが、高度成長の時代でした。おのおのが進む道が違ったのです。
北山 修さんは、何とか加藤さんとはしださんとの交流復活を願っていました。
ところが、はしださんは原因不明の低血圧に悩まされていました。
加藤さん、北山さん、そしてアルフィーの坂崎さんで、1回だけ「フォークル再結成」をNHKテレビでやりました。
残念だったのは、加藤さんが借金苦にして自殺したこと、そしてはしださんが「パーキンソン病」で、もう余命がなかったことです。
でも、昭和の40年代を代表する「フォークル」は、今でも斬新なアイデアを出すトリオで、今ではなくなった「フォークソング 日本版」を成功させた最初のグループです。
加藤さん、はしださんの死を悼む人は多いでしょう。
もう一度、あの昭和高度成長期にあった歌と笑いをミックスしたフォークソンガ-のことを知る人は多いと思います。
「冥せよ、早すぎた天才フォークル」、せめてもの追悼として、結びといたします。