氷室京介

氷室京介のレビュー・評価・感想

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氷室京介
10

カリスマロックボーカリスト

BOOWY解散後ソロにて音楽業界の第一線にて引退するまで活躍。なんといっても艶のある歌声とライブパフォーマンスがスゴイ。男女問わず多くの人が魅了される。
1988年に「FLOWERS for ALGERNON」にてレコード大賞アルバム大賞を獲得。作曲は氷室本人が多い。ソロ何年目かまでは作詞もしていたが、だんだんと作詞家と共作や任せる事が多くなった。
氷室さんはビート系アーティストと言われる事が多いが、バラードやミディアムもとても素晴らしい。例を挙げるとドラマ主題歌の「ダイアモンドダスト」やコーヒーCMの「waltz」等を筆頭に「calling」「ALISON」「FOLLOW THE WIND」等メディアにはあまり出ない名曲が多数ある。
新しい事を常に提供してくれている氷室さんだが、ライブパフォーマンスで使用される花火も一番最初に始めたのはBOOWYとの事。ミュージシャンや芸能人の趣味で多いブラックバス釣りも氷室さんがかなり早く(90年代頃)から行っていた。
耳の不調によりライブ活動は引退されたが、2006年頃から片耳が不調でもファンには一切言わずに最高の音とパフォーマンスを提供し続けてくれていた。最後のライブである「LAST GIGS」のMCにて(氷室さんが)「60歳の歳に最後のアルバムを出せたら」と話している。最後のアルバムが楽しみで仕方がない。

氷室京介
10

孤高のカリスマ氷室京介

氷室京介さんと言えば1981年に今は誰もが知る伝説のバンドBOΦWYを結成。氷室京介、布袋寅泰、松井常松、高橋まことの4人編成のバンドです。
しかし、デビュー初期のアルバム「MORAL」までは6人編成のバンドでした。バンド期間はわずか6年と短いですが数々の名曲を産み出し熱狂的なファンに支持されてます。
誰もが知る名曲で言えば解散前に発表した「Marionette」。BOΦOYの曲で1番ヒットしました。1987年12月に解散宣言をし1988年4月に出来たばかりの東京ドームにてLAST GIGSが開催、2日間のチケットとが即完売し文京区の電話回線はパンクするという人気ぶり。今でも語り継がれ、日本にROCKを確立したのはBOΦWY。BOΦWY以前BOΦWY以後と語られる事もあります。
1988年7月にシングル「ANGEL」でソロデビューし1992年にはシングル「KISS ME」が自身初となるミリオンセラー獲得。また1993年に発売されたアルバム「Memories Of Blue」もミリオンセラーとなる。日本では有名で人気になった氷室さんは何も言わなくても色んな事が成立してしまう環境に違和感を感じ1997年単身で渡米します。ソロデビュー初期当たりまではBOΦWY色が感じられますが、渡米する前辺りから渡米した後の作品というのはより、唯一無二のものになっております。2011年には東日本大震災が起き元々、東京ドーム2日間自身の50歳バースデーライブが予定されてましたが、急遽チャリティーライブに変更し全曲BOΦWYでやった方がたくさんの寄付金を届けられるという思いから急遽セットリストを全曲BOΦWYに変更し2日間の収益は全額被災地に寄付。2016年には耳の不調から4大ドームツアーを持ってライブ活動だけを休止されました。
バンドでもソロでも名曲を残してきた氷室さんのファンというのは歌や曲や声はもちろんですが、それ以上に生き様に惚れてると思います。

氷室京介
10

永遠のカリスマロックアーティスト。ヒムロック。

BOOWYを解散後、ソロアーティストとして活動をはじめ、これまで常に第一線で活躍してきた偉大なるアーティスト「氷室京介 通称:ヒムロック」。
1988年にソロ活動を開始し、その年にリリースされたファーストアルバム「Flowers for Algernon」はその年のレコード大賞アルバム大賞に輝きます。
その後順調に活躍し続け、1992年にリリースしたシングル「KISS ME」、1993年にリリースしたアルバム「Memories Of Blue」がいずれも自身初となるミリオンセールスを記録します。しかしその商業的な音楽の在り方に苦悩し、より自分らしい音楽を求め1997年にロサンゼルスへ移住します。
そのロスでの音楽的影響がのちのヒムロックの作品に大きく及ぼし、さらなる進化したヒムロックの音楽性が発揮されていきます。
しかし2014年のツアーの最中に「氷室京介を卒業する」と電撃発表をします。理由は「トーンデフ」と呼ばれる耳の難聴により、自身のイメージするライブ活動が次第に取れなくなりつつあることからです。そして2017年に「KYOSUKE HIMURO LAST GIGS」をもってヒムロックとして最後のライブを締めくくります。しかし最後の最後までライブを通して自身のミュージシャンとしての生きざまを見せてくれたその姿に、一ファンである私としてはとてつもなく感動を覚えました。
その音楽性をはじめ、音楽に対するストイックなほどの姿勢はまさにカリスマそのものであり、その後の多くのアーティストにも影響を与え続けるミュージシャンです。まさに「かっこいい」を地で行く存在そのものです。

氷室京介
7

L' ÉPILOGUE

ステージから引退する前にリリースされたベストアルバムで、事実上キャリア最後のアルバムとなっている。
ただ、連続してリリースされたベストアルバムなだけに、収録曲は結構被っていて新鮮さはない。
また、KISS MEやダイヤモンド・ダストなどヒットした曲はおおよそ収録されているにも関わらず、
ClaudiaやGirls Be Glamorousなどキャリア後期の曲は初回限定のライブバージョンでの収録となっていて、氷室京介の集大成といえるコンプリードベストアルバムではなく、ファンとしては収録曲の基準がよくわからない、引退直前の集金ベストアルバムにしか見えない。
その他、初期のBOOWY時代の曲をカバーしているが、シンプルだった曲をいろいろアレンジしたせいで
BOOWY感が薄れてしまい、残念なカバー曲に聞こえてしまう。
特に、CLOUDY HEARTはコーラス部分が心地悪く聞こえてしまい、素晴らしい曲が台無しになっている。
そんな中、わがままジュリエットだけはこのアルバムの中でも注目の1曲。
ミディアムな曲調はそのままでアレンジもシンプルなものとなっているので、バンド時代とは違う氷室京介の歌の上手さが、原曲を超えたと錯覚させるような最高の出来になっている。

氷室京介
10

アルバム『Missing peace』について

元BOOWYのボーカリストであり、ソロとして活躍していた氷室京介がロサンゼルスを拠点にして、LAのミュージックを起用し制作された1996年に発表した、オリジナルアルバム。

ミキシングエンジニアに世界的に有名なニールドーフツマンを起用。スティングなどの超有名なアーティスト作品を手掛ける世界的エンジニアである。
当時36歳であった氷室京介の脂の乗りきった声と、氷室の美学が全面に出された世界観で、聴くものを圧倒させるクォリティを誇る。
全10曲入りだが、1曲1曲の完成度が高く、バーラードでは、その世界観に引き込まれる。
捨て曲無しの、アルバムで後に続く氷室京介が自身の最高傑作と称する『i dea』に少なからず影響を与えたアルバム。
渡米後、LAを拠点に活動し、自信をセルフプロデュースする形をとっているが、1996年頃から、自分自身の音楽事務所を設立し、レコーディングスタジオを作り原盤管理を行うようになる。
日本でBOOWYの頃からの根強いファンを持ち、引退後の今でも、その人気は衰えるどころか、ますます、カリスマ性が高まっている。
ライブグッズは瞬く間に完売続出で、今では高値で取引されている物も数多く出回っている

氷室京介
10

氷室京介のカッコ良さとは

氷室京介は完全引退こそしていないものの、現在は耳の不調によりライブ活動を休止している状態です。この事から分かる通り、氷室は非常にストイックで妥協を許さない性格なのです。
もともとはBOOWYという伝説のロックバンドのボーカリストであり、同郷の群馬県高崎市で面識のあった布袋寅泰らを誘い、このバンドを結成しています。当初は人気が出ませんでしたが、ライブハウスでの過激で観客を引き寄せるパフォーマンスで、アンダーグラウンドの現場では知る人ぞ知る存在だったのです。テレビにはほとんど出演しないものの、その勢いは凄まじいものがあり、ライブの動員やCDの売り上げを順調に伸ばしていきます。そして人気の絶頂期で突然バンドの解散宣言、この辺りに彼らの美学があらわれている様に思います。
ボーカルの氷室はソロに転身後、その歌唱力とルックスでカリスマ的人気を集めます。常にクオリティやカッコ良さを追求する彼は、私生活を明らかにせずテレビ出演も相変わらず少ないまま、それでいて圧倒的なライブパフォーマンスを見せ続けます。楽曲と声の良さや歌唱力、他のアーティストや一般人が真似したら笑われてしまうようなステージアクションでも、氷室がやったら様になってしまう、そんな唯一無二のアーティストといえるでしょう。