ソマリと森の神様

ソマリと森の神様のレビュー・評価・感想

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ソマリと森の神様
8

おもしろかった

友人から勧められて見始めたこの作品は、ソマリがまず可愛いです。
そしてソマリのお父さん役をしているゴーレムは最初人間の感情がわからないが故にソマリの行動を理解しきれてなかったりするシーンがありますが、作品どんどん進んでいき様々な人達と関わるうちに感情は分からないものの感情らしきものが芽生え始めます。
最初は父親らしくなかったゴーレムが最後の最後には父親らしくなり、感情のようなものを抱きます。
そこが1つの見どころだと思いました。
そして、途中で出会う鬼たちは人間であるソマリを襲ってしまうのかと思いましたが、とてもいい人たちでソマリのことを人間だとわかりながらも仲良く楽しく過ごしている姿がとてもなごみます。
また、ソマリがお父さんであるゴーレムの言うことを文句をいいながらでもいちんと聞くとてもいい子であり、でも好奇心旺盛な女の子なのでたまにはお父さんのゴーレムが想像できないような行動するところが可愛らしく、見どころのもう一つだと思いました。
そしてこの作品を見終わる頃には、自分はまだいつ死ぬかわからないけれど一日一日を無駄にせず大切に生きていく、ということを改めて思わされるような作品でもあると感じました。

ソマリと森の神様
10

温かい気持ちを呼び起こす、種族を超えた親子物語

本作は同名の漫画を原作としたテレビアニメです。
人間の少女ソマリと森を守る存在であるゴーレムの旅を描くファンタジーです。

異形たちが支配し、人間が絶滅の危機に瀕する世界のため、
ソマリに安心して過ごせる場所はありません。
ゴーレムには活動限界があるため時間の猶予はないものの、
ソマリを人間の元に届けたい一心で旅を続けます。

ソマリとゴーレムの二人に血のつながりはありませんが、
少しずつ本当の親子として絆を深めていく様は見ていて何度も心が動かされました。
感情のないはずのゴーレムが、自分の中に芽生える感情に戸惑いながらも、
父親としてソマリの成長を見守る姿は必見だと思います。

キャラクターは、人間のソマリにゴーレム、小鬼と様々な種族が登場します。
彼ら彼女らとの交流もあるのですが、胸が締め付けられ、目を背けたくなるような展開もあるので、
その点には少し注意が必要かもしれません。

色彩豊かな背景は、ファンタジー世界への没入感を高めています。
多彩な植物や動物たちが共存する森、異国情緒溢れる町や村、魔法使いが管理する大図書館など、
どれもが一切の妥協なく描かれていて、実在感を感じるほどです。

声優や楽曲についても目が離せません。
主人公ソマリ役には、水瀬いのり、ゴーレム役には小野大輔という人気声優が起用されています。
また、シズノ役には元宝塚男役の七海ひろき、ローザおばさん役にはタレントの柴田理恵。
オープニングテーマを手掛けるのは森山直太朗。
多方面で活躍する方々が関わっている所も、この作品の見どころです。

最後には温かい気持ちに包まれ、余韻に浸ることが出来ました。
是非見て頂きたい作品です。

ソマリと森の神様
10

心が温まり、正義とはなにか考えさせられる最高のアニメ作品。

単行本『ソマリと森の神様』のTVアニメ作品で、心が癒され、温まりたい人におすすめのアニメ。

人間が迫害され、“異形”が支配する世界を舞台に森の番人ゴーレムと、ただひとりの人間、少女ソマリが父親を見つけるための旅を描いている。
物語は完全にファンタジーだが、異形に支配された世界観がとても新鮮に感じられる。一つ一つ色彩豊かに表現されている絵と、やわらかく温かい音楽が相まって、その世界観だけでも感情移入してしまう。

この世界でソマリは人間であることを隠して旅をするが、感情のないゴーレムと感情豊かなソマリは実に対照的に描かれ、時にすれ違い、戸惑いながらもお互いを大切に思う心は変わらない。
また人間が迫害され、世界に居場所がないにもかかわらず、ソマリはいつも明るい笑顔で周りを照らし、純粋無垢な心に厳しい現実が突きつけられていく様に胸が苦しくなるが、ゴーレムの全てを懸けてソマリを守ろうする姿や、その周りのモノたちの優しさが、見ている私たちの涙を誘う。

また、旅の先々で出会う登場人物たちも、彼らの中で何かを抱え、誰かを想うが故の行動であることが伝わってくるため、何が“善”で何が“悪”なのか、私たちも改めて考えさせられるストーリーである。

ソマリと森の神様
8

親とは何なのかを考えさせられる

物語はとある森から始まる。
森の番人ゴーレムは、ある日森で人間の子供と出会う。
自分の名前すらわからない人間の子供に、ゴーレムはソマリという名前を付け共に暮らすこととなる。
ゴーレムには感情がない。並外れた分析力で無駄を省き、効率の良い選択だけをして生きている。
ソマリはゴーレムをお父さんと呼び、ちぐはぐな関係で生活を続けていく中でいつしか親子のようになっていたのだが、寿命が近いゴーレムはソマリを人間の元に返すために旅に出ることを決める。
世界は、人間と人間ではない種族の間で起こった戦争により、人間ではない種族「異形」が支配している。
人間は迫害され、食料とされてしまう。
人間ということを隠しながら、人間を探すソマリとゴーレムの旅を描いたアニメ。

感情のないゴーレムは、旅をし、色んな「異形」や人間と出会い、ソマリを助ける中で少しずつソマリを想う気持ちが強くなっていく。
親として何が正しいのかを探っていくゴーレムの姿を自分と重ね合わせて、親とは何なのか、家族とは何なのかを考えさせられる。
ゴーレムの寿命は1000年。ちょうど1000年で体が崩壊してしまう。少しずつ崩壊する体、終わりが見えている旅の中で、ソマリは人間の元に帰れるのか、そして、ゴーレムとソマリ親子はどのように終わりを告げるのか。続きが気になる作品だ。

ソマリと森の神様
8

ソマリとゴーレムの関係

この作品は異世界のファンタジー物語では無く、「現実にある社会と日常の世界」を描いています。それは「社会と人」そして「人と人」との関係性です。
その関係性とは大きな枠組みである「社会の世情」と小さな枠組みの「家族と友人や共同体」です。
それぞれが異世界の物語でありながら、現実社会は比喩として描かれるのが作品の中心となっています。
そこで私が思い浮かべたのは社会学者マーク・グラノヴェッターが提唱した「強い紐帯」と「弱い紐帯」という概念です。
強い紐帯とは親友や家族といった親密な社会的な繋がり、弱い紐帯とは知り合いという意味です。
この物語においては「ソマリとゴーレム」「旅先で出会う者達」がそれにあたります。
強い紐帯と弱い紐帯が織りなすドラマに、背景となる「差別と偏見」と「戦争」という文化的、社会的な世情が絡んでいきます。
その中心として描かれていると感じるのは「ゴーレム、そして、父となる」物語であるというところです。
ゴーレムは異形の中でも特殊な存在です。
普通の異形は人と同じ様に感情を持ち、家族も友人もいて、そして共同体の中で暮らしています。
けれどもゴーレムは違います。
ゴーレムは「森の精霊」であり「森の守り神」であるからです。
「個」として生きるものではなく「象徴や機能」としての存在です。
「神」として森の生態系と秩序を守る役割が課せられた存在です。
人とも他の異形とも基本的に交わることはしませんし、中立な立場を取っています。
その為に余分な感情も持ち合わせず、合理的な思考、ある意味AIの様なアルゴリズムで存在していましたが、ソマリとの邂逅で大きく舵を切ることとなります。
これはある意味「禁」を破る行為です。
何故そこまでしてゴーレムはソマリの為に自分の残された時間を使おうと決心したのか?
本人自身も合理的で論理的な答えは出せていません。
それはソマリによって本来自分には持ち合わせていないそして自ら否定していた「情動」が生まれたからです。
後のエピソードでゴーレムは語ります「(ソマリが怪我をした時顔の筋力を歪め眼球が潤んでいくその表情を見ていると思考回路が乱れた。)(胸に手をあて)主にここが落ち着かない、私はソマリにもうあの顔をして欲しくないと思った。」と。
これはゴーレムが「父親」になった瞬間ではないでしょうか?
人は家族を持った時、子供を授かった時に大きく自分の役割の舵を大きく切ります。
それは人間の場合は意思の問題だけなく、遺伝子やホルモンであり、責任であったりしますが、ゴーレムはそんなシステムは持ち合わせてはいません。
実際に初めはソマリを森から出て行く様に突き放しもします。
「外のものには干渉してはならない、あれは管理対象ではない。」
「追跡を中止して森から離脱せよ。」と。
そこで「では何故」という疑問がおこります。
ソマリはゴーレムをお父さんと呼んでしつこく離れようとはせずに付き纏います。
その時幼いソマリには計算も打算も見えて来ません。
未知の森で危険を犯してまでゴーレムを追いかける合理的判断もありません。
ソマリがゴーレムに魅せる屈託のない笑顔には人の本能が窺えます。
ソマリがゴーレムを見て即座にお父さんと呼んだのは、子供としての性が何かを受け取ってそう呼ばせたものではないでしょうか?
これまで森の精霊、そして守護神として公正で中立な立場であり、天上のものとして羨まれる恐れられる存在であったゴーレムには初めての経験だったのではないでしょうか?
「自分を好きになった人を好きになる」ではないですが、この初めての体験によりゴーレムにこれまでは無かった感情の様なものが芽生え始めます。
ソマリとの邂逅が引き金になり、胸にモヤモヤとしたものが芽生え、そして「この笑顔をずっと見ていたい」という意識が生まれます。
これはシステムや機械が心を持った瞬間であり、精霊、神が人間となった瞬間でもあります。
故に「心を持ったゴーレムがソマリの父親となった」瞬間です。
ゴーレムはソマリが自分がいなくなった森で一人で生きていく事は出来ない故にソマリを両親の元へ返す必要があるという論理的な判断をしますが、これは自分の中で起こった感情に対する言い訳である様に思えます。
異形と人間との戦争で人間が負け、「人間狩り」が蔓延る世界ですし、ソマリも「奴隷」として異形に捕まっていたことから推測するに、ソマリの両親が生きている確率は低いと思われます。
そしてソマリと一緒にいたいという気持ちとソマリを助けたいという気持ちには抗えなくなります。
そんな自分に率直になり自分の残り少ない時間を森の精霊、守護神ではなく、ソマリの守護神(父親)という役割で、在野の強い紐帯の中で生きようと、ゴーレム的いうところの非合理な選択をあえてするのです。
二人だけの旅の中でソマリはゴーレムを本当ので父親として接し、ゴーレムもソマリの父親としての役割を果たそうとします。
ソマリが異形に狙われない様に人間としての身分を隠し常に側に付き添います。
外の世界での生き方の知恵を授けたり、無邪気で好奇心旺盛なソマリに危険を教えたりします。
ソマリが道中離れて行かない様に手をつなぐことも学習します。
数々の危険な事件や事故に遭遇するソマリを救います。
食事も不自由なく与え、怪我や病気にかかれば薬草も調達します。
行き先の地図を買ったり旅の資金が途絶えれば働きにも出ます。
一見あたり前のことの様に見えますが、本来は全てゴーレムには不要なものです。
ゴーレムは食事も取りませんし病気にもなりません、自分一人なら泊まる宿も要りません、本来精霊、神であるゴーレムには外敵もいません。
ですからこれらは全てソマリの為に行っている行為です。
そして極めつけはソマリが異形に捉えれて食べられとした時に、意識が飛んで「戦闘モード」となってソマリの窮地を救います。
ゴーレムはソマリを連れ立ったことにはついては「後悔していない」と語ります。
けれどもソマリとの接し方には「迷い」があるようです。
それを印象的に描かれているのはアリ穴の街の食堂の店主との会話のシーンにあります。
ソマリがゴーレムの望みを叶えようと「夜覚の花」を取りに行き危険な目にあってしまいます。
勝手な行動をしたソマリを叱るゴーレムですが、過労で体調を崩して倒れてしまうソマリの傍らでゴーレムが「私のせいだ…」と店主に心情を吐露します。
そして店長は「完璧な親はいません…」と答えます。お互いに失敗しながら成長していく「それが家族ですよきっと」と諭され「家族」という言葉の意味を噛みしめるゴーレムです。
二人の旅を通じて旅先で出会う者達の家族や親子に、そして共同体の仲間としての在り方を知りながら、「家族の絆」を深めソマリの成長と共にゴーレムが「親」として成長していく。
「ソマリと森の神様」からはそんな物語が読み取れます。

ソマリと森の神様
8

世界を綿密に魅せる、圧倒的描き込み

中身はともかく、外見は無機質なゴーレムである「おとうさん」や、全体的に退廃的な雰囲気の強いこの世界の中で、数少ない人間であるソマリは、圧倒的な描き込み量の背景から際立ち、他の何者よりも生命力が感じられます。
”ヒト狩り”によって人間が絶滅の危機に瀕している世界で、実際にソマリを狙う脅威にさらされることがありながらも、おとうさんの献身や、意外にもソマリたちに協力してくれる人たちもいて、暗い雰囲気になりそうな状況にも関わらずどこか温かさを感じます。
それというのも、ソマリは状況に無頓着な能天気。それが元来の性格であるのか、お父さんと一緒だから安心しているのか?きっと両方なのだと思います。
幼さに見合って危なっかしいソマリは、無防備にはしゃいでは危ない目に合いそうになりますが、おとうさんがゴーレムとしての分析能力と戦闘能力を用い、いつも助けてくれます。
その姿は本当の親子のようで「ゴーレムには感情が備わっていない」というお父さんですが、ソマリの危険には緊張や憤怒の気配を見せることも。確かに感情を滅多に見せないかもしれませんが、まるで寡黙だけど娘を想う優しいお父さんみたいです。
食べ物に目がなくなんでも美味しそうに食べるソマリの可愛さも、この作品に多く備わる魅力の1つです。