Pink Floyd(ピンク・フロイド)とは【徹底解説まとめ】

ピンク・フロイドとは1965年にロンドンで結成されたイギリスのロックバンドである。その前衛的な音楽性とサイケデリックなサウンドは世界的な賞賛を得ている。哲学的な歌詞、実験的なサウンド、綿密な曲構成やユニークなライブパフォーマンスによって、彼らはポップ・ミュージックの歴史の中で最も成功した影響力の強いグループであると見なされている。作品の総売り上げは全世界で2億3000万枚以上を記録している。

来歴

結成から1967年まで

ロンドンの建築専門学校でロジャー・ウォータースとニック・メイスンが出会った。2人は共通の友人であったキース・ノーブル、ライヴ・メットカーフとジュリエット・ゲイルの5人で音楽を始める。のちに同じ学校に通っていたリチャード・ライトがグループに加わり、シグマ6というバンドを結成する。当初はロジャーがリードギター、ニックがドラム、リチャードがリズムギターを担当していた。バンド名をティー・セット、アーキテクチュラル・アブダブス、アブダブスと変えながら地道に活動を続けていくが、1964年にキース・ノーブル、ライヴ・メットカーフとジュリエット・ゲイルの3人が脱退する。残ったロジャー、ニック、リチャードの3人は後任として旧友であったシド・バレットとギタリストのボブ・クロースを誘い、バンドに加入させた。
1965年の中頃に両親や大学の講師からの反対を受け、ボブ・クロースがバンドから脱退し、シド・バレットがリード・ギターとして後任を務めることとなった。1965年の後半頃にバンドは自分たちを「ピンク・フロイド」と名乗るようになった。シドがピンク・アンダーソンとフロイド・カウンシルという2人のブルースミュージシャンから名前を拝借した。
ブルースなどの曲を中心にローリング・ストーンズやザ・フーの曲をコピーして演奏し、マーキー・クラブなどの有名なライブハウスから徐々に声がかかるようになった。そのうち即興演奏や照明などを多用したショー要素を導入し、独自の路線を築き始めた。この頃からシドが精力的に作曲を始めるようになり、バンドオリジナルの楽曲が増えていった、このことによりバンドはシドを中心に動き出すこととなった。
バンドは長尺な即興演奏やカラースライドを用いた効果的なライトショーにより、ロンドンのアンダーグラウンドシーンでだんだんと名を挙げ、地元の新聞にも取り上げられるようになる。
活動拠点をUFOというロンドンのアンダーグランドシーンを代表するクラブに移し、精力的な活動を続けていたバンドは音楽業界の関心を得るようになり、複数のレコード会社との争奪戦ののち、最終的にEMIと契約を結んだ。EMIは1967年3月にバンドのファーストシングル「Arnold Layne」をリリースした。「Arnold Layne」は異性装などの服装倒錯を扱ったデリケートな内容の歌詞であったため、複数のラジオ局からオンエアを禁止されたが、UKチャート最高20位を記録するなどまずますのスタートを切った。
同年6月にはセカンドシングル「See Emily Play」をリリースした。BBCの番組でパフォーマンスを行うなどし、前作「Arnold Layne」を超えるUKチャート最高6位を獲得した。
同年8月にはファーストアルバム「The Piper at the Gates of Dawn(夜明けの口笛吹き)」をリリースする。アルバムはUKチャートで最高6位を獲得し、14週に渡りランクインされていた。この頃バンドは変わらずUFOでライブを続けていたが、大勢の観衆の期待感からかシドの精神状態が悪化し始める。メンバーはシドの不調は一過性のものであると楽観的であったが、LSDを多用していたシドの容態は悪化し、バンドが演奏を開始しても、シドはギターを首にかけ何もせずにステージで棒立ちするなど奇行が見られるようになる。シドの奇行が目立ち始めてからはいくつものライブをキャンセルせざる得なくなり、バンドマネージャーは音楽誌にシドの精神状態が良くないことを発表した。バンドが初めてのアメリカツアーを行う際にはシドの状態は最悪になり、記者からの質問には答えない、ライブ中に歌を歌うことを拒むなどしたため、バンドマネージャーはアメリカツアーを途中で止めさせた。
イギリスに戻ったバンドはジミ・ヘンドリックスのイギリスツアーをサポートしていたが、シドの精神状態は危機的状況になり、他のメンバーは代わりとなる新しいメンバーを加入させることを検討する。

メンバー交代と世界的成功

出典: pastdaily.com

1967年12月、バンドはギタリストのデヴィッド・ギルモアを5人目のメンバーとして迎え入れた。デヴィッドは60年代初頭にシドと同じ学校に通っていたため、彼とは旧知の仲であった。バンドはシドにライブに参加させず、作曲のみを行うメンバーとして引き続き活動していこうと考えていた。その後、5人組のバンドとして宣材写真を撮影したり、新たな活動のスタートだと思われたが、「Arnold Layne」や「See Emily Play」に続くヒットを生み出さないといけないという意識もあってか、シドの精神状態は回復しなかった。シド共にバンド活動していくのは結果的に困難になり、1968年3月にメンバーはマネージャーとバンドの今後について話し合い、シドはバンドを離れることに同意した。
シドがバンドを去った後、これまでシドが書いてきた独創的な歌詞やサウンドを引き継いでいくプレッシャーはロジャーにのしかかった。デヴィッドは加入直後はパフォーマンスを行う際に、シドの歌声を意識するようにしていた。しかしながら、だんだんとシドの曲を演奏することを避けるようになり、「It Would Be So Nice」 や 「Careful with That Axe, Eugene」などというロジャーやリチャードの曲を演奏するようになり、シドの影をなくすようにしていった。

1968年、バンドはセカンドアルバム「A Saucerful of Secrets(神秘)」をレコーディングするために、ロンドンのアビーロードスタジオに入った。ロジャーとリチャードは作曲の能力を開花させ始め、各々数曲ずつ収録収録されている。
アルバムは1968年6月にリリースされた。今作ではアルバムのアートワークをアートグループ「ヒプノシス」のストーム・ソーガソンとオーブリー・パウエルが手がけている。UKチャートでは最高9位を記録し、11週間ランク入りした。各メディアからの評価は全体的に好意的なものが多かったが、曲が長く退屈である、などと評したメディアもあった。この年の12月に「Point Me at the Sky」というシングルをリリースしているが、 "See Emily Play"以上の売り上げを記録することが出来ず、これは1973年リリースされるシングルまで続くこととなる。

1969年にはバルベ・シュローダー監督の映画「More(モア)」のサウンドトラックの制作を担当している。制作に時間をかけることが出来ず、収録されている曲の多くはライブで披露していたものの流用などであると言われている。同年11月には「Ummagumma(ウマグマ)」という2枚組のアルバムをリリースしている。1枚目にはライブ音源を収録し、2枚目には各メンバーが実験的な音楽を演奏している様子が収録されている。この作品は批評家に好意的に受け入れられ、UKチャートでは最高5位を記録している。

1970年10月、バンドは5枚目のアルバム「Atom Heart Mother(原子心母)」をリリースした。今作はバンドにとって初の1位を記録した作品となり、メディアからも絶賛され、音楽的にも商業的にも成功を収めた。タイトル曲の「Atom Heart Mother」はオーケストラを全面に取り入れたレコードのA面を全て使った23分を超える曲である。「Atom Heart Mother(原子心母)」のアメリカ・ヨーロッパツアーを終えたバンドは、次作の制作に取り掛かった。しかしながら取り上げるテーマがなかったため、昼過ぎから明け方まで基本的な音の考察やギターのリフを長い間考えたりなど、しばしば非生産的な試みを行なっていた。

そして続く1971年に6枚目のアルバム「Meddle(おせっかい)」がリリースされた。前作「Atom Heart Mother」には及ばなかったものの、UKチャートでは最高3位を記録し、82週間もランクインを続け、大絶賛された。この「Meddle」は60年代のシドの影響下にあったピンク・フロイドから新しいピンク・フロイドへの転換期であると言われている。バンド自身も今作を持ってようやくクリエイティビティを確立出来たと語っている。この年に初来日を果たし、音楽フェスティバル「箱根アフロディーテ」などでコンサートを披露した。

1971年のイギリス、日本そしてアメリカを周るツアー終了後、バンドは次の作品の製作へと取り掛かる。ロジャーがニックの自宅で行われた新作についてのミーティングにて、精神を悪化させてしまった元メンバーのシドや自分たちを囲むプレッシャーなどからヒントを得た、「人を狂わせてしまうもの」を次のアルバムのテーマする提案をした。他のメンバーはロジャーのこのコンセプトに賛同し、デモを制作する。1972年5月から翌年1月までレコーディングが行われ、1973年3月に7枚目のアルバム「The Dark Side of the Moon(狂気)」がリリースされた。今作はイギリス、西ヨーロッパで大ヒットし、批評家筋からも熱狂的な賞賛を持って受け入れられた。この頃にアメリカツアーを行っているが、アメリカでも今作はバンド史上最高のヒットとなり、1位を獲得している。ビルボードチャートに14年もランクインし続け、世界中で4,500万枚以上売り上げている。アルバム発売と同時に、シングルリリースした「Money」もアメリカで1位を記録し、バンドは一躍スターダムにのし上がった。これにより、バンドを取り巻く環境は大きく変わり、ライブの客は大幅に増え、客層も変わり、これがメンバーを苛立たせることとなる。

「The Dark Side of the Moon」をフィーチャーしたツアーを終え、バンドは1975年1月に9枚目のアルバムを制作するために再びスタジオに戻った。前作の大成功により、肉体的、精神的にも満足していたバンドは新しいテーマを見つけることに苦戦した。ロジャーとリチャードは後にこの頃を「何事も困難な時期」だったと振り返っている。デヴィッドはバンドが既に制作した曲の改良に興味を持ち、ニックは彼の妻との関係が悪化していることもあり、制作に集中出来ないでいた。メンバーの創作の意欲が欠如している中でも、ロジャーは新しいコンセプトを思いつき始めていた。
1974年、バンドは3曲新しい曲を生み出し、それらをヨーロッパツアーで組曲として披露し始めた。デヴィッドのギターで始まるその曲は新しいアルバムへの足がかりとなった。この曲には元メンバーであるシドのミュージシャンとしてのキャリアの浮き沈みが表されていて、ロジャーはシドがいなくなったことに対する定義し難い悲しさに出来るだけ近づいてみたかったため表現した、とコメントしている。
バンドが新しいアルバムの制作を行っている際、シドは急にメンバーのいるスタジオを訪れたが、あまりにも見た目が変わってしまっていたため、メンバーはしばらくの間シドに気がつかなかったという。
そして1975年9月に9枚目のアルバム「Wish You Were Here(炎〜あなたがここにいてほしい)」を完成させ、リリースする。アメリカ、イギリスのどちらのチャートでも1位を獲得した。
これ以降、バンドが発表していく作品は大掛かりなコンセプトアルバムの体裁をもったものになっていく。

ロジャー・ウォータース主導の時代

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1975年のアルバムリリース以降、ロジャーがバンドの主導権を強く握って行くことになった。1976年に彼らは10枚目のアルバム「Animals(アニマルズ)」の録音を終える。「Animals」のコンセプトはロジャーのアイデアであり、イギリスの小説家ジョージ・オーウェルの「動物農場」に影響されており、このアルバムのストーリーでは社会階級を犬、豚、羊と分けて表している。アルバムのアートワークはロジャーによって南西ロンドンにあるバタシー発電所の写真が採用された。全5曲中4曲がロジャー作になっており、それまでに見られた浮遊感のある幻想的な音は鳴りを潜め、ストレートで激しいロックサウンドになった。
「Animals」リリース後、「Pink Floyd : In The Flesh」と題したツアーでヨーロッパと北米各地を周った。これはバンド史上最大級のツアーとなった。このツアーの最終日にカナダのモントリオールにて最前列で騒ぎ立てるファンにロジャーが腹を立て、顔面に向かって唾を吐きつけるという出来事が起こる。その後、この出来事を振り返って自らショックを受けたロジャーは行為を後悔しながら、「観客と自分たちの間に見えない壁が存在している。」とラジオ番組にて語った。この経験を次の作品「The Wall」のアイデアにしている。このころ、各メンバーはソロ活動を開始し、デヴィッドは1978年にアルバム「David Gilmour」をリリースし、ヒットを記録する。

1978年7月、ロジャーはメンバーに次作について2つのアイデアを話した。1つは「Bricks in the Wall」という90分に及ぶデモテープ、もう1つは後にロジャーのソロアルバムとして発表される作品のデモテープであった。デヴィッドとニックは前者を次のアルバムのアイデアとして採用した。共同プロデューサーだったボブ・エズリィンは新しいアルバムに対して"ピンク"というキャラクターを主人公にした物語を書いた。第二次世界大戦によって父親を亡くしたロジャーの幼少期の実体験を"ピンク"に投影している。
そして1979年11月2枚組11枚目のアルバム「The Wall(ザ・ウォール)」を発表した。収録曲26曲のうち数曲を除き、そのほとんどをロジャーが作詞・作曲を担当している。発売当時の音楽業界はパンクロックやニューウェーブなどの音楽ジャンルが台頭しており、ピンク・フロイドなどのプログレッシブ・ロックと呼ばれるジャンルのグループは「オールドウェーブ」と揶揄られ、若いリスナーからは見向きもされていなかった。しかしながらシングル「Another Brick in the Wall (Part 2)」とともに全世界で売り上げ3,000万枚以上の大ヒットを記録するなど、若いリスナーに底力を見せつけた。
この頃にはバンド内でロジャーの力はさらに拡大し、リチャードをバンドから解雇させるなど、メンバー間での亀裂が大きくなっていった。リチャードをサポートメンバーとして帯同した「The Wall Tour」ではライブ途中からバンドがいるステージと観客席の間に壁を築き始め、一番最後の曲で全て崩れ去るという演出を行い、話題となった。

アルバム「The Wall」、そのコンサートツアーをまとめたアラン・パーカー監督の映画「Pink Floyd The Wall」のサウンドトラックが制作される予定だった。しかしながら同時期にイギリスとアルゼンチン間で紛争(フォークランド紛争)が起きたことにより、ロジャーはアルバム制作の方向性を大きく変えることにした。デヴィッドは前作「The Wall」のセッション時に出来た曲を今作には流用せず、全く新しい曲で構成するべき、という意見を持っていたが、これによりロジャーと対立することとなった。それに加え、ロジャーは他のバンドメンバーのプレイに満足しなくなり、アルバム制作もほとんど一人で進め、多くの外部ミュージシャンを起用した。
1983年3月に「The Final Cut(ザ・ファイナル・カット)」をリリースした。サブタイトルに「A requiem for the post war dream by Roger Waters(ロジャー・ウォータースによる戦後の夢へのレクイエム)」と付いており、ロジャーのソロアルバムのような内容になっている。売り上げは芳しいものではなかったがUKチャートでは1位を獲得している。ウォータースの戦争に対する個人的な思いや、戦死した自身の父親をモデルとしたキャラクターを出すなど、重い雰囲気の作品であるため、ファンからも賛否が分かれる作品である。
今作の制作過程からバンドには亀裂が入り、ロジャーはこのバンドで活動を続けていくことは不可能だと悟り、脱退ではなく、バンドの活動停止を考えるようになる。「The Final Cut」リリース後にツアーの予定もあったが、これらのことから中止になった。そしてリリースから2年後の1985年にロジャーはバンドを脱退し、勝手にバンドの解散を発表した。

デヴィッド・ギルモア主導の時代

出典: www.billboard.com

ギルモアはメイスンと共にピンク・フロイドの「解散」に強く反対してグループの存続を主張しており、ロジャーの脱退を受け、自ら指揮を執って新生ピンク・フロイドを立ち上げた。ギルモアは多数の外部ミュージシャンを招聘してアルバム制作に取り掛かった。ロジャーはこのピンク・フロイドの活動継続に激怒して訴訟を起こす。ギルモアは訴訟への対応を余儀なくされたが、「The Wall」に関する権利をロジャーに譲ること、ステージでの「豚」のオブジェクトの使用禁止、楽曲使用に伴う収入の20パーセント強をロジャーに支払うことなどを条件に両者は和解した。この両者の対立はマスコミやファンの注目の的となり、「ローリング・ストーン」誌のピンク・フロイド特集号はその年の同誌の売り上げナンバー・ワンとなった。
こうして存続可能になったデヴィッド主導の新生ピンク・フロイドは1987年に「A Momentary Lapse of Reason(鬱)」をリリースする。トニー・レヴィン、カーマイン・アピス、ジム・ケルトナーなど著名なミュージシャンを起用し、それまでの尺の長い大作にこだわらず、コンパクトにまとまった曲群になっている。これまで作詞を担当していたロジャーがいなくなり、デヴィッドが作詞も担当することになったが、初めて行ったため大変困難だったと言われている。この時点でも正式なメンバーはデヴィッドとニックの2人のみで、リチャードはサポートメンバーだった。今作は全英・全米3位の売り上げを記録し、大掛かりな舞台装置を使ったツアーを行い、バンドの復活を印象付けたが、これに対してロジャーは「ピンク・フロイドの偽物」だと一蹴した。1988年には3度目の来日公演を行い、現在までにこれが最後の日本公演となっている。

1993年、前作のリリースから6年経ったころ、再度デヴィッドを中心として新作へのセッションが断続的に行われ始めた。1975年の「Wish You Were Here」以来、リチャードが正式なメンバーとして復活した。セッション開始から2週間経ったころ、約65もの曲が出来上がり、プロデューサーとバンドが投票制で最終的に11曲に絞った。リチャードもいくつか作曲を担当しており、リードヴォーカルを務めた曲もある。多くのスタジオミュージシャンが起用されており、なかでも収録曲の多くの作曲を担当したポリー・サムスンという女性はのちにデヴィッドと結婚している。そして前作より7年後の1994年3月に「The Division Bell(対/TSUI)」をリリースした。これまでの問題を取り上げたような「コミュニケーションの欠如による対立」というコンセプトを持った今作は全米・全英を始め、世界各国の多くでランキング1位を獲得した大ヒットアルバムとなった。今作リリース後も再び大規模なツアーを行った。全112公演を行い、ツアーの総費用は2億ドルを超えると言われている。集客も上々で、述べ550万人動員し、その模様を収めた映像作品「P.U.L.S.E」をリリースした。これ以降、再び沈黙に入り、長い間バンドとして動きを見せないようになる。

再結成、メンバーの死、ラストアルバム

出典: images.vogue.it

ピンク・フロイド側とロジャー・ウォータース側は決別後、決定的に対立し、雑誌上でもロジャーとデヴィッドはお互いに非難し合うことが多かった。しかしながら、1990年代後半より、2人の間は徐々に縮まり和解しつつあった。
2007年7月2日、ロジャー、デヴィッド、ニック、リチャードの4人はピンク・フロイドとしてアフリカ貧困撲滅チャリティー・イベント「LIVE 8」のステージにて再結成を果たし、復活ライブを行った。最初にロジャーが同イベントでの再結成に意欲を示し、デヴィッドと話し合いを行い、最初は消極的だったデヴィッドも他のメンバーが賛成したこともあり最終的に同意した。ステージ上でロジャーは観客に向かって「シドのためにステージに立っている」と語った。ステージが終わるころ、ロジャーがデヴィッドを呼びかけ、メンバー全員でハグをした。この再結成の後、1億ポンドで全米ツアーのオファーがあったがデヴィッドがこれを断った。

同年にロックの殿堂入りを果たす。リチャードは目の手術のため欠席、デヴィッドとニックが出席し、ロジャーは滞在先のパリから衛星中継で参加した。

2006年7月7日、ケンブリッジの自宅にて元メンバーであったシド・バレットが60歳で亡くなった。7月18日に彼は埋葬されたが、メンバーは参列することができなかった。2007年5月10日にシドの追悼コンサートが行われ、デヴィッド、リチャード、ニックの3人はシドが作曲したバンド初期の曲を演奏し、ロジャーはシドのソロ曲をカバーした。
2008年9月15日、リチャードが癌のため65歳で亡くなった。デヴィッドが追悼の声明を出し、彼が作曲したセカンドアルバム収録の「Remember a Day」という曲を披露した。ELPのキーボーディストとしても有名なキース・エマーソンも追悼のコメントを出し、ピンク・フロイドの音の核であったと賞賛した。

2010年7月10日、ロジャーとデヴィッドはイギリスで開催されたパレスチナの子どものためのチャリティー・イベントで共演した。

2011年5月にはロンドンのO2アリーナで開かれたロジャーのライブコンサート「The Wall」にてデヴィッドとニックが出演し、久しぶりに3名での共演が実現し、演奏が行われた。
同年9月にはピンク・フロイドとEMIレコーズが「Why Pink Floyd...?」と題した過去作品のリマスター及び再販のキャンペーンを行った。

2012年、デヴィッドとニックは新しいアルバムを製作するために「Division Bell」時のセッション音源を探ることを決めた。ロジャーは参加せず、ニックは「リチャード追悼のためにアルバム」であると述べた。
2014年7月にTwitterにて20年ぶりとなるアルバム「The Endless River(永遠/TOWA)」を同年10月にリリースすることを発表した。作品はインストゥルメンタル中心のアンビエント作品になることをバンドのホームページにて明らかにした。
遅れること1ヶ月、2014年11月7日に作品はリリースされ、デヴィッドは「これがピンク・フロイドの最後のアルバムになる」と述べた。リチャードなしでは不可能だ、という理由で今作を宣伝するツアーを行わないことを明言し、翌年にはロジャーを含めての再結成の可能性を改めて否定し、ピンク・フロイドの終わりをほのめかした。

Pink Floydのメンバー

デヴィッド・ギルモア(David Gilmour)

1946年イギリス生まれのミュージシャン。
1968年にシド・バレットの後任としてピンク・フロイドにギタリストとして加入した。
バンド後期、ロジャー・ウォータースが脱退した後はリーダーとしてバンドを導いた。
ストラトキャスターのギターをよく使用している。ローリング・ストーン誌が選ぶ偉大なギタリストで2003年に82位、2011年には14位にランクインされている。

ニック・メイスン(Nick Mason)

出典: societyofrock.com

1944年イギリス生まれのミュージシャン。
ピンク・フロイド結成時からのメンバーであり、バンドではドラムを担当していた。
バンド中期にメンバーのロジャーとデヴィッドの関係が悪化した際は、中立な立場をとっており、ロジャー、デヴィッドのどちらのライブにも顔を出すなど、どちらとも良好な関係を築いている。
バンドの楽曲に聞かれる効果音などは彼が率先してテープコラージュなどをおこない制作していた。
ローリング・ストーン誌が選ぶ偉大なドラマーにおいて51位にランクインしている。

リチャード・ライト(Richard Wright)

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