Duran Duran(デュラン・デュラン)の徹底解説まとめ

Duran Duran(デュラン・デュラン)とは、1978年、イギリス、バーミンガムにて結成されたバンド。1980年代に起きたニューロマンティックムーブメントを代表するバンドとなり、アイドル的なルックスのよさやスタイリッシュなファッションを武器に世界中でブレイクした。1981年「プラネット・アース」でデビュー、84年シングル「ザ・リフレックス」で初の全米No.1に輝く。その後はメンバー・チェンジなどで活動は一時停滞するが、デビュー40周年を超え、これまでのレコード・セールスは1億枚を超える。

Duran Duran(デュラン・デュラン)の概要

Duran Duran(デュラン・デュラン) とは、1978年、イギリス第二の都市バーミンガムにて結成されたバンド。1980年代に起きたニューロマンティック(New Romantic)ムーブメントの火付け役となり、代表するバンドとなった。MTV開局と共にはじまったプロモーション・ビデオ・ブームにのって、そのアイドル的なルックスのよさやスタイリッシュなファッションは母国イギリスだけでなく、日本でも多くのファンの支持を得た。
バンド名はジェーン・フォンダが主演したSF映画『バーバレラ』(1968年)で登場する悪役「デュラン・デュラン(Durand-Durand)博士」がもとになっている。
1981年2月「プラネット・アース」でデビューし、1stアルバム『デュラン・デュラン』が全英アルバム・チャート3位を記録した。その後も「グラビアの美少女」、「ハングリー・ライク・ザ・ウルフ」といったシングルがヒットし、82年セカンド・アルバム『リオ』をリリース。北米ツアーを経て、アメリカでも大ヒットし、その人気は世界的なものになった。
83年3rdアルバム『セヴン・アンド・ザ・ラクド・タイガー』(英1位 / 米8位)をリリースし、84年シングル「ザ・リフレックス」が初の全米シングル・チャートNo.1に(全英も1位)。85年はパワー・ステーションや、アーケイディアといったメンバーのサイド・プロジェクトが話題となり、シングル「007 美しき獲物たち」が全米シングル・チャートのNo.1となる。
その後は相次ぐメンバー・チェンジなどで活動は停滞するが、1993年発表のアルバム『デュラン・デュラン(ザ・ウェディング・アルバム)』からのシングル「オーディナリー・ワールド」と「カム・アンダーン」の大ヒットでメジャーシーンに復活。2001年にオリジナル・メンバー5人の再結成によるワールド・ツアーを敢行し大きな話題となった。
1980年代にニューロマンティック・ムーブメントの火付け役となったデュラン・デュラン。2021年にデビュー40周年を迎え、これまでのレコード・セールスは1億枚超、全米ヒットチャート・シングル18枚、全英トップ30シングル30枚を記録、今も世界の音楽シーンを疾走し続けている。

Duran Duran(デュラン・デュラン)の活動履歴

ニューロマンティック・ムーブメントとは

デュラン・デュランを知るうえでまず、1980年代初頭に花開いたニューロマンティック・ムーブメントについておさらいしたい。

始まりは、ロンドンでクラブを経営しながらもバンド活動をしていたスティーブ・ストレンジ率いるシンセポップバンド「ヴィサージ」と言われている。ニューロマンティックのサウンド面での特徴は、基本的にシンセサイザーを多用したエレクトロ・ポップである。

誕生のきっかけは、1970年代後半のイギリスの主流であったムーブメント「パンク」への共感と反発であった。パンクが先鋭さを失いつつある中、新たな刺激と表現方法を模索し始めた若者たちは、スティーヴ・ストレンジとラスティ・イーガンが1978年にソーホーのクラブ「ゴシップ」でスタートしたパーティに集まるようになる。

その後「ビリーズ」、更にコヴェント・ガーデンの「ブリッツ」へと場所を変えたパーティはロンドン随一の人気を誇るクラブ・イヴェントへと成長した。このブリッツには、後にカルチャークラブを結成するボーイ・ジョージがクロークをしていたことも有名で、その他にもシャーデー、スパンダー・バレエといった面々が集っていた。ドレスコードは厳しく、あのローリング・ストーンズのミックジャガーですら追い返されることもあったと言う。

音楽的にはデヴィッド・ボウイとロキシー・ミュージックを核に、イギー・ポップ、シスター・スレッジ、クラフトワーク、ジョルジオ・モロダー、YMOなどを逸早く紹介していた。これらを融合させたダンサブルで斬新なサウンドを打ち出したのが「ヴィサージ」であり「スパンダー・バレエ」であった。その後、スパンダー・バレエの最初の2枚のアルバムをプロデュースした、ニュージーランド人のリチャード・ジェイムス・バージェスが「ニューロマンティクス」という名前を初めて公に発表した。

ロンドン以外の都市でも、例えばシェフィールドでは、実験的なエレクトロニック・ミュージックをやっていたヒューマン・リーグやABCが台頭してきた。そしてパーミンガムでも、ニュー・ロマンティックの拠点だったクラブ「ラム・ランナー」のDJとして人気を誇っていたニック・ローズが、パンクの次に鳴らすべき音を模索していた。そんな中デュラン・デュランが産声をあげた。

この様に、1970年代後半のイギリスで同時多発的に誕生したニューロマンティックからは、デュラン・デュランを筆頭に、スパンダー・バレエ、ヒューマン・リーグ、ABC、ヴィサージ、ウルトラヴォックス、ヘブン17などが誕生したが、このムーブメントは1982年頃には先鋭さを失い急激に終息して行く。

しかしこれらのバンドに、カルチャークラブ、ワム、カジャグーグー、ポリス、ユーリズミック、フロック・オブ・シーガルズ、ハワード・ジョーンズ、バナナラマ等、多くのイギリスのアーティスト達が加わり、やがてそれは、ビートルズやローリングストーンズなどの1960年代の「第一次ブリティッシュ・インベージョン」に続く「第二次ブリティッシュ、インベージョン」(イギリス音楽の世界侵略)と言う形に生まれ変わり、イギリス音楽が全世界を席巻して行くことになる。

1978〜1980 バーミンガムのクラブ時代

1978年、イギリス、バーミンガムにて、ジョン・テイラーとニック・ローズはデュラン・デュランを結成した。ジョンは地元のクラブ「ラム・ランナー」のドアボーイをしており、ニックはそこでDJ をしていた。近くにはセックス・ピストルズや、クラッシュ等の大物パンクグループがギグをする様な有名なクラブが点在していたが、デュラン・デュランは「ラム・ランナー」の常設バンドとして活動を始めた。バンド名の由来は、ジェーンフォンダ主演のSF映画『バーバレラ』に登場する悪役「デュラン・デュラン博士」にちなんでいる。バーミンガムには当時バンドの登竜門となっていたクラブ『バーバレラ』があり、同映画から命名されていたため、バーバレラでの演奏を目指す意思を表明したものである。

バンドの初代ボーカリストはスティーブン・ダフィー。その後ベーシストにサイモン・コリーが加わり、バンドの初代ラインナップは、ダフィー(ボーカル)ジョン・テイラー(ギター)コリー(ベース)ローズ(キーボード)となり、ドラムはローズがキーボードと並行してエレクトリックドラムを打ち込んでいた。

1979年の初めにボーカルのダフィーが脱退、2代目ボーカリストにはアンディ・ヴィケットが就任した。ヴィケットはファーストアルバムに収めらる事になる「Girls on Film」のデモバージョンの殆どを執筆したり、その後、デュラン・デュランのヒット曲となる「Rio」の原型となる初期バージョンを共同執筆するなど大きく貢献をする。

同じ年のとあるパーティーで、バンドはロジャー・テイラーと出会う。バンドは打ち込みから遂に本物の人間のドラマー加えることになった。

その後ベーシストのサイモン・コリーが脱退、ギターのジョン・テイラーがベースにシフトする。ヴィケット(ボーカル)ジョン(ギター、ベース)ローズ(キーボード)ロジャー(ドラム)のラインナップで初めてのデモテープを作成する。その後ヴィケットがバンドを去り、次のボーカリストにジェフ・トーマスを、ギタリストにはアラン・カーティスを招いたが、彼らは短期間でバンドを去っていった。

1980年4月、ニューカッスル出身のアンディ・テイラーがメロディメーカー誌の募集を見オーディションにやってきた。アンディはギタリストに就任。5月にはロンドンからボーカリストのサイモン・ル・ボンがやってきた。ルボンの元彼女がかつて「ラム・ランナー」で働いていたため、デュラン・デュランに推薦された。「ルックスの良さ」「魅力的な声」「歌が上手い」そしてオーディションを受けた人たちの中で唯一「詩や曲を書き溜めたノート」を持参していたと言う理由が決めてとなり、ルボンがボーカルに採用された。

幾度ものメンバーの変遷があったが、ここに遂にデュラン・デュランの栄光の5人が勢揃いした。彼らはリハーサルをしていない時は「ラム・ランナー」でドアマンやDJ、バーテンダーとして食いつないでいた。

クラブ内では当時の音楽と派手なファッション、パンクとエレクトロニック、ハウスやディスコを融合させた音楽を展開していた。

デュラン・デュランは特にシックのナイル・ロジャース、バーナー・ドエドワーズ、そしてジョルジオ・モロダーらディスコミュージックの影響を受けており、彼らの音楽は特にダンスフロアで熱狂的に受け入れられた。アンディ・テイラーはバリバリのロックファンであったが、フロアの女の子たちはむしろディスコ音楽に傾倒していた。彼らはラジオに売り出す前に、先ずはダンスフロアでの反応をさぐりながら、ロックとディスコを融合させた音楽を作り上げていった。

1980年に彼らは2本のデモテープを録音し、バーミンガムとロンドン周辺のクラブで演奏を行った。同じ年の後半、ヘイゼル・オコナーのオープニングアクトとしてツアーを行ったときにバンドは注目を集め、EMIレーベルとフォノグラム・レコードの間で入札バトルが繰り広げられたが、最終的に彼らは12月にEMIレーベルと契約をした。

メンバーはサウンドと共にファッションにも力を入れ、専門のスタイリストを雇い、メークアップをしたり奇抜な衣装を身に纏った。スタイリッシュで中性的な中にもほのかなダンディズムを加えたスタイルは、ニューロマンティクスと呼ばれて、その後一大ムーブメントを起こした。現在で言うヴィジュアル系バンドのはしりである。

1981〜1982 デビュー

1981年、EMIレーベルからファーストアルバム『デュラン・デュラン』がリリース、ファーストアルバムからいきなり大ブレイクする。

最初のシングル「プラネット・アース」がイギリストップ20チャートで12位に到達、

セカンドシングル「ケアレス・メモリー」は37位と失速したものの、続く3枚目のシングル「グラビアの美少女」はイギリスチャート5位に入り、そのグッドマスクとファッションも合わせて一気に注目を集めた。アルバムは英国のトップ20で3位に入った。

1982年、デュラン・デュランは世界的に認知されるようになってきた。5月にはセカンドアルバム『リオ』をリリース、このアルバムからは「マイ・オウン・ウェイ」、「ハングリー・ライク・ザ・ウルフ」、「セイヴ・ア・プレイヤー」、そしてタイトル曲「リオ」の4曲でUKトップ20シングルを獲得した。

ダイアナ妃はデュラン・デュランをお気に入りのバンドと宣言し、バンドはイギリスのマスコミによって「ファブ(素晴らしい)ファイブ」と呼ばれた。これは、かつてビートルズが「ファブ・フォー」と呼ばれていたことに準えたことによる。

当初、『リオ』のアルバムは米国ではうまくいかず、英国のEMIはデュラン・デュランをニューロマンティックバンドとして宣伝していったが、ニューロマンティック運動は米国ではほとんど知られていなかった。

1982年6月、デュラン・デュランはアメリカのテレビに初めて出演し、全国的なヒットショーであるダンスパーティーUSAの前身であるダンシンオンエアで「ハングリー・ライク・ザ・ウルフ」と「リオ」を上演した。11月にはアメリカで『リオ』が再リリース、6か月後にはヨーロッパのチャートを上回る様になった。また開局したばかりのMTVも、ファッショナブルでティーン受けするようなデュラン・デュランのビデオをヘビーローテーションさせ、人気は鰻上りに上がっていった。アルバムは最終的に全米6位にまであがり、129週間チャートにとどまった。

1983〜1984 MTVの時代に乗り全米制覇

1983年新年、MTVニューイヤーズ・イブ・ロックンロールボールに出演。前年発表の「ハングリー・ライク・ザ・ウルフ」がまだ全米チャートを上昇している中、3月「リオ」のシングルをアメリカでリイシューし直した。更にデビューアルバムのアメリカ盤がリリース、追加録音された新曲「Is There Something I should Know?」は本国イギリスで1位を獲得、アメリカでも4位となった。日本ではこの曲は「プリーズ・テル・ミー・ナウ」としてサントリーウイスキーのCMにも使用されヒットした。

この年、初めてアメリカでプロモーションをし、MTVに出演した際には、現代ポップアートの旗手「アンディー・ウォーフォール」がスタジオに挨拶に訪れた。またタイムズスクエアの店舗で「グラビアの美少女」を演奏した時には多くのファンが店を囲み、警察がタイムズスクエアを封鎖する迄に至った。それはまるでかつてのビートルズを彷彿する熱狂だった。

同じ年、キーボードのニック・ローズはリマール率いる「カジャグーグー」の「君はTOO SHY / Too shay」をプロデュース、全英1位、全米5位のヒットとなった。そしてこの年、デュラン・デュランの最初のメンバーとしてアンディ・テイラーが結婚した。

その後バンドはモントセラト、シドニーで3枚目のアルバムを録音した。その年の夏に帰国してからは2度のコンサートを行った。1つ目は7月20日にドミニオン劇場でウェールズの王子と王女の前で、2つ目はサッカーのアストンヴィラのホームグラウンドでチャリティーコンサートを行った。

セカンドアルバムのヒットを受け、バンドはレーベルから圧力をかけられていた。バンドメンバーは完璧主義に陥り、不安や発作を経験しながらレコーディングプロセスには6か月以上かかった。一部のメンバーは退廃的なライフスタイルを送り、薬物を乱用するほどのヒステリーな状態になったが、その様な状態の中完成したニューアルバム「セブン・アンド・ザ・ラグド・タイガー」からは、ファーストシングル「ユニオン・オブ・ザ・スネーク」をヒット。この曲はラジオのオンエアより先にMTVでリリースされヒットした。これにより「ハングリー・ライク・ザ・ウルフ」、「リオ」、「セイヴ・ア・プレイヤー」、「プリーズ・テル・ミー・ナウ」と1983年の1年の内で3つの異なるアルバムから5つの全米トップ20ヒットを記録することとなった。

その後、セカンドシングル「ニュー・ムーン・オン・マンデー」が全英9位。そしてアルバムのオープニングを飾る「ザ ・リフレックス」は元シックのナイル・ロジャースによってリミックスされ、全米チャートで遂にナンバーワンを獲得、イギリスでもナンバーワンとなり、世界中の多くの国で成功を収めた。

1984年、シングル「ザ・ワイルド・ボーイズ / The Wild Boys」が英国、米国で2位を獲得。

アメリカツアーの後、ロジャー・テイラーがイタリアのナポリで結婚し、ニック・ローズもロンドンで結婚した。 1984年の終わりにはバンドエイドのチャリティーシングル「ドゥ・ゼイ・ノウ・イット・クリスマス?」に参加した。

1985 サイドプロジェクト「パワー・ステーション」から007テーマソング

1985年1月にはシングル「セイヴ・ア・プレイヤー」がアメリカで特別にリミックスされ、3月のBillboard Hot100で16位に輝いた。

これらの成功により、バンドは小休止に入ったが、メンバーの新作への意欲は高く、バンドは一時的に2つのサイドプロジェクトに分割された。一つは「パワー・ステーション」で、ジョン・テイラーとアンディ・テイラーの2人に、ボーカルには大御所ロバート・パーマー、ドラムには元シックのトニー・トンプソンを迎えた。プロデュースは元シックのバーナード・エドワーズ。因みにプロジェクトの名前の『Power Staion』は主にレコーディングで使用したニューヨークのスタジオの名前から取った。Bon Joviのジョン・ボン・ジョヴィが若い頃アルバイトしていた事でも有名なスタジオである。

ジョンとアンディはデュラン・デュランのサウンドからは完全に脱却し、ハードロックの素材を追求したいと考えていた。このプロジェクトからは「サム・ライク・イット・ホット」の大ヒットと、T-REXのカバー「ゲット・イット・オン」の2曲が全米TOP10入り。「サム・ライク・イット・ホット」は80’sを代表する曲となり、プロジェクトは大成功を収めた。
一方のサイモン・ル・ボン、ニック・ローズ、ロジャー・テイラーの3人は、デュラン・デュランの雰囲気をさらに探求したいと考え「アルカディア」を結成した。

アルカディアは、シングル「エレクション・デイ」がヒット。このアルバムには、元一風堂の土屋昌巳、スティング、ハービー・ハンコック、デビッド・ギルモアなどが参加した。ロジャー・テイラーはアルカディアのドラマーでありつつ、パワーステーションのアルバムにもパーカッションで参加した。

この休止の後、バンドは再開したが、それは以前と同じデュラン・デュランではなくなっていた。ローズは後年、「二つのサイドプロジェクトに分かれたことは、商業的には成功したものの、バンドとしては自殺行為だった」と振り返っている。

1985年に『007 / 美しき獲物たち』のテーマソングの為に再編成したときもバンドはまだバランスが崩れていた。しかしシングルはヒットし、映画と同名のテーマ曲「美しき獲物たち / A View to a kill 」は全米チャートで1位になり最初のボンドテーマとなった。またイギリスチャートでは2位となり、当時のイギリスでも最高位のボンドテーマソングとなった。

そしてこれが、バンドがオリジナル5として録音した最後のシングルとなるとは当時誰も予想をしていなかった。

1985年7月13日、バンドエイドのシングルリリースに続く「ライブ・エイド」がペンシルベニア州フィラデルフィアのジョンF.ケネディスタジアムで開催され、9万人(および推定15億人のテレビ視聴者)のオーディエンスの前で演奏した。そしてこのライブを最後に、デュラン・デュランは暫くライブ、およびメディアへの露出を休止することを発表する。

4年間ノンストップでツアーやプロモーションを続け、メンバーは暫くの休息を欲していた。それは決して「さようなら」を意図したものではなかったが、結果としてこの時を最後におよそ20年近く5人が集まることはなかった。次にオリジナル5が再び揃うのは、2003年7月になる。

1986〜1988 アンディ、ロジャーの脱退

1986年、バンドは2人のメンバーを失うことになる。
まずドラマーのロジャー・テイラーが疲労によりイギリスの田舎に移住した。当初、1年間の休養期間と発表していたが、4月に彼の正式な脱退が発表された。

ギタリストのアンディ・テイラーは、MCAとのソロレコーディング契約を結んでいたが、デュラン・デュランの新しいアルバムの制作には戻ることになっていた。やがて彼のソロアルバム「サンダー」がリリースされると、バンドの引き留めにも関わらずアンディの気持ちは離れていき、アルバム制作は遅れに遅れた。最終的にバンドはアンディを手放した。

ギタリストとドラマーを失った残りの3人のメンバー、ルボン、ローズ、ジョン・テイラーは、プロデューサー(元シックのギタリスト)のナイル・ロジャースにギターでいくつかのトラックを演奏させ、元アヴェレージ・ホワイト・バンドのスティーブ・フェローンを雇ってドラムを、またミッシング・パーソンズやフランク・ザッパ・バンドで活動していたウォーレン・ククルロをセッションギタリストとして雇った。こうして1986年10月にアルバム『Notorious』がリリースされた。

タイトルシングルの 「ノトーリアス / Notorious」は全米で2位、英国で7位になったが、以前と比較してセールス的にも人気的にも失速した。前作『Seven and Ragged Tiger』のヒットから3年、10代のファンの多くが成長し、またデュラン・デュランの音楽もよりファンキーに、よりアダルトになり、その反面、かつてのポップさはなくなった。バンドは10代のアイドルのイメージから脱皮しようともがき苦しんでいた。

1987年後半、スターリン・キャンベルがセッションドラマーとして雇わた。

1988年、アルバム『Big Thing』からは、シングル「アイ・ドント・ウォント・ユア・ラブ . I Don't Want Your Love」と「オール・シー・ウォンツ・イズ / All She Wants Is」がヒットした。ハウスミュージックやレイブの影響を取り入れ、新メンバー、ククルロのクリエイティブなギターワークを融合させ、バンドは新しい音楽スタイルを模索していた。

1989〜1992 ウォーレン・ククルロの加入

1989年、アルバム『Big Thing』のツアー終了とともにギタリストのウォーレン・ククルロとツアードラマーのスターリン・キャンベルがデュラン・デュランの正式メンバーになり、バンドは久しぶりに5人メンバーとなった。

しかしシンセポップの時代は去り、ヒップホップ、テクノ、オルタナティブロックなどがメインストリームとなり、バンドにとっては逆風の時代となっていた。

1989年後半、コンピレーションアルバム『Decade』をリリース。過去10年間のバンドのヒット曲を網羅したアルバムと、それらヒット曲をミックスしたシングル「バーニング・ザ・グラウンド / Burning the Ground」もリリースされた。

1990年にリリースされた『Liberty』は、UKアルバムチャートでトップ10に入るものの、すぐに消えていき、シングル「夏のヴァイオレンス / Violence of Summer(Love's Takeing Over)」と「シリアス / Serious」は、わずかな成功に終わった。

1991年、スターリン・キャンベルがバンドを去ったが、ルボン、ローズ、ジョン・テイラー、ククルロのカルテットはその後6年間続いた。

1991年12月、ジョン・テイラー(当時31歳)は19歳のモデル、女優のアマンダ・デ・カデネと結婚し、1992年3月に娘を出産した。

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