夏目漱石門下にして、芥川龍之介の友。そして元祖鉄ちゃん。いろいろ異色な作家「内田百閒」

大正から昭和にかけて活躍した作家さんです。とはいっても、師匠夏目漱石や友人芥川龍之介の陰に隠れている感はあるかも?ですが、作風も経歴も何もかも「異色」な印象です。「目に入れても痛くない」ほど汽車を愛し、いなくなった猫を想って泣き…語りだしたら止まらないほど「異色」の作家、内田百閒とは一体、どのような人物なのか?そもそも、どこがどう異色なのか?

経歴

1889年岡山県出身。本名は内田榮造。「百閒」という筆名は故郷にあった「百閒川」から。百鬼園(ひゃっきえん)なる別号も名乗っていたが、共に戦後名乗るようになったもの。夏目漱石に弟子入りし、後輩にあたる芥川龍之介とも親交があった。実家は造り酒屋で、祖母から溺愛されたため「我が儘」な人物であったという。ちなみに、16歳で父親を亡くして後酒屋は潰れており、かなりの困窮生活を強いられた。それでも東京帝国大学に入学。療養見舞いが元で夏目漱石を知り合い、彼の作品の校正などをしていた。独逸文学を修め、卒業。陸軍士官学校、海軍機関学校、法政大学などで教鞭をとる。小説を書くかたわら日本郵船に勤めたりもした。1971年没。

作風は?

作風は、というとこれまた異色。今でいう「シュール」系、というのでしょうか。夢の中のような、奇妙奇天烈な展開。なのに、どこか現実的。だから何だか怖い。でも、気になる…初の短編集『冥途』はそんな話のオンパレードで、夢の世界で「身に覚えのある」ような事象が書かれています。江戸時代の小説家、山東京伝の弟子となり、玄関わきで丸薬を作りながら「来客応対」を仰せつかる『山東京伝』と、必ず当たる予言をする妖怪、件(くだん)になってしまった主人公が、自分を祀り上げる周囲の人間に対し困惑する『件』などが印象に残っています。

ドイツ語の先生

法政大学等でドイツ語の先生をしていた時期があったのですが、教え方は「詰め込み式」。とにかくウワーッと、まさに氾濫した川のごとき勢いで教えていたようです。「そんなんじゃ、忘れちゃいますよ」という学生の抗議に対し、何と言ったか?「試験終わったら忘れていい。だから今は覚えろ。いいか?知らないってことと、覚えてて忘れるってことは違うんだ」…名言です。生徒からするとたまったもんじゃありませんが。

元祖鉄ちゃん

「目に入れても痛くない」のは子供ですが、彼の場合は列車、汽車の類がそれだったようです。

「汽車を目に入れて走らせても痛くない」

出典: ja.wikipedia.org

わざわざ汽車に乗って、それに関する本まで出したほどです。『阿房列車』(ちくま書房)など多数ありますので、興味のある方は、是非ご一読を。

ユニークな一面

蓋をとってひとわたり眺め、饅頭にたいして号令をかける…「気を付け、休め!」然る後にひとつとって食べる。何かかわいいです。他にも、戦時中に食べたいものを箇条書きにしたり、近所の幼稚園で児童に対し敬語で注意を呼び掛ける放送を聞いて、自宅猫に敬語で「ここで遊ばないでください」なんて言ってみたり、さして猫好きではないと言いながら、かわいがっていた猫のことを本にしたり、いなくなったら猫ちゃんお気に入りの場所でさめざめと泣いたり…何ですか、この萌え親父は。

運がいいのか、悪いのか

借金のせいで第六高校(現在の岡山大学)の寮に入れず自宅からの通学をしており、その後もかなりお金には困っていたようです。せっぱつまって、「漱石先生にお金を用立ててもらおう」と思い立ったことがありました。行ってみると先生は旅行中。行き先と宿泊先を教えてもらい、なけなしのお金で汽車に乗って…200円(当時)借りる約束を取り付けることができました。しかし、「今日は泊まってきなさい」との先生の言葉に甘えていざ、布団に入って気づきます。自分が今日、200円のお金を借りられたのは、ものすごく運に恵まれていたんだと。行き先を教えてもらえなかったかもしれないし、手持ちの金で行けないところに行っていたかもしれない。それにすれ違いで帰ってしまったこともあるだろうし、まだいても会ってもらえなかったかも…会っても貸してもらえなかったかも…読んでいる方もひやりとします。

甘木

氏の随筆にはよく「甘木」なる人物が登場しますが、必ずしも同一人物ではありません。某(なにがし)という言葉を崩しただけの、便宜上の匿名であり、氏の気遣いとセンスが見て取れます。

最後に

他にもいろいろなエピソード、異色とはいえ、おもしろい面はありますので、興味を持たれた方は氏の本を読まれるといいでしょう。「好きな作家がまた一人増えた!」となりますように。

えどまち
えどまち
@edono78

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