本当にあった大量虐殺事件 ルワンダ虐殺【ルワンダの涙】【ホテル・ルワンダ】

ここでは1994年、ルワンダで起こった大量虐殺事件「ルワンダ虐殺」について紹介する。フツ族とツチ族という民族同士の対立が激化したことで起きたこの事件の正確な犠牲者数は不明で、50万人から100万人とも言われ、これはルワンダの人口の10%から20%にもあたる。『ルワンダの涙』や『ホテル・ルワンダ』といったルワンダ虐殺を伝える映画や、今のルワンダについても触れる。

▼ツチ族(虐殺された民族)約250万人

アフリカ中央部のルワンダとブルンジを中心に居住する「3つの民族」集団の一つ。16世紀頃の牧畜民に起源を有するとみられる集団で、少数派であったがルワンダ、ブルンジで王室を支えていたためにドイツ、ベルギー(第1次世界大戦後)の植民地支配の際に農耕民であったフツや狩猟採集民のトゥワに対する間接統治者として支配階級となった。

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フツとツチの違い

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両者の違いは、植民地となる以前の王国で、ツチが支配者階級に多かったのに対し、フツは被支配者階
級がほとんどだったこと。つまり「社会階層」です。例えるならば、江戸時代の士農工商の「武士」がツチ、「農
民」がフツという構図になります。

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●過去にもあった民族間虐殺の歴史

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ブルンジ内戦

1972年、少数民族のツチ族による支配に不満を持つフツ族の反乱で1万人のツチ族が殺害されると、その報復として同年4月から10月にかけてツチ族系の軍隊がフツ族10万人を殺害するという事件につながった。

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フツのメルシオル・ンダダイエ大統領が歴史的勝利をおさめて大統領に就任するが10月にはクーデター未遂事件がおこり、ンダダイエ大統領がツチ族強硬派に暗殺された。その後も多数民族であるフツ系の大統領が選出されるがツチ系の国軍を抑えることはできず、ブルンジ内戦(1993年 - 2005年)と呼ばれる長期にわたる報復合戦が継続された。

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死者は推計で100,000から300,000人に上った。
ツチはブルンジで依然として権力を握っているが、2005年にはピエール・ンクルンジザが2人目の選挙によるフツ系大統領となった。

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公立技術学校の虐殺

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ルワンダの涙の元になった史実

国際連合ルワンダ支援団は国連本部から「国際連合ルワンダ支援団はルワンダにいる外国人の避難のみに焦点を当てた活動行うよう」指示を受けた。この指示により、2000人のツチが避難していたキガリの公立技術学校の警護を行っていたベルギーの平和維持部隊は、フツ・パワーのプロパガンダを繰り返し叫ぶ過激派フツに学校を取り囲まれている状況であったにも関わらず、同施設の警護任務を放棄して撤収してしまい、その後校内へ突入した過激派フツにより避難民が一斉に虐殺される結果となった

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3 一連の出来事

1994年4月6日ルワンダのフツ系大統領と政治家が殺害される

1994年4月6日は内戦の再開と虐殺の始まりとなった。

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Cyprien Ntaryamira

フツ系
ブルンジの大統領

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Juvénal Habyarimana

フツ系(虐殺側)
ルワンダ第3代大統領
故人

グレゴワール・カイバンダ大統領(ルワンダ初期大統領)
をクーデターで失脚させ政権を掌握
※グレゴワール・カイバンダ大統領はツチ系

1994年4月、ブルンジのフツ系の大統領、シプリアン・ンタリャミラと一緒にキガリ空港に向かっていた飛行機が何者かによって撃墜され死亡した。この事は支配的な少数派のツチと多数派のフツとの間の争いの火付け役となった。

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Grégoire Kayibanda

ルワンダ初代大統領
ツチ系(母親はフツだったとも言われている)
クーデターにより失脚
死刑判決が言い渡され軟禁され餓死

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