不思議発見!日本にちらばるミステリー都市伝説

日本中にちらばる都市伝説やミステリーを集めました。

3月4日 近畿の空に四角い月が現れる。
4月4日 駿府城内に奇怪な「肉人」が現れる。

徳川実記という幕府の正史に残されている記載である。

徳川家康が駿府城に居た時の事。ある日の朝、城の庭に子どもの様に小さく、指のない手で上を指す、「肉人」とでも云うような異様な者が立っていた。それを見た城内の者たちは、その異様さに一様に驚き、如何にすべきかわからず「変化である」と騒ぎ立てるばかりであった。

この御庭の騒動に近習は、この事を家康に伝え、どうすればよいかを伺った。家康は「人目につかぬ場所に追い出せばよい」と答え、結局、山の方へ追い払ってしまった。

この話を聞いた薬学者は「なんとも惜しい事をしたものだ。騒いだ者らの不学ゆえに、仙薬を家康公に奉る事ができなかったとは。その肉人は白沢図に伝わる封(ほう)というもの。これを食せば力が増し武勇が優れると云われるものだったのに」と嘆いたという。

徳川家に仇なす妖刀 村正

出典: matome.naver.jp

「村正」は室町時代に伊勢国桑名で始まった刀工の名で、その一派が打った作品の銘の事を言う。初代村正は、かの名工政宗に弟子入りしたと言われている。

正宗の元での修行時代、あまりに切れ味にこだわりすぎる村正を案じた正宗は、ある時、互いが鍛えた刀を川面に突き立てた。刃は上流を向いる。正宗の刀は、水流を分けるのみで、流れてきた落ち葉は刀を避ける様に下流へ去っていく。かたや村正の刀は、落ち葉を吸い寄せ、それを真っ二つに斬り裂いた。

これを見た正宗は「斬れるだけでは真の名刀とはいえない。斬れ味にこだわり過ぎる心は邪気となって刀に宿り、斬らなくてもいいものまでを斬ってしまうのだ」と諭した。しかし、村正は「斬れることこそ刀の真髄」と言い残し、正宗のもとを去った。

一度、鞘から抜くと血を見ずにはいられなくなると伝えられた。

村正が妖刀と呼ばれる様になったのは、関ヶ原の合戦で勝利し覇をなした徳川家に数々の禍をもたらしたからと言われている。

徳川家康の祖父清康と父広忠は、共に家臣の謀反によって殺害されており、どちらも凶器は村正であった。

徳川信康

また、家康の嫡男信康が謀反の疑いで死罪となった際に、介錯に使われた刀も村正の作であり、更に関ヶ原の戦いの折、東軍の武将織田長考が戸田勝成を討ち取った槍を家康が見ている時、家臣が槍を取り落とし家康は指を切った。家康は怒って立ち去り、長考は槍を叩き折ったという。この槍もまた、村正だったとされる。

真田幸村

徳川家康を最後に追い詰めた稀代の名将・真田幸村。幕末から維新の頃に書かれた「名将言行録」には、「幸村は家康を滅ぼすことを念願としており、常に徳川家に仇なす村正を持っていた」という記述がある。

また、幸村が大坂夏の陣で徳川家康の本陣を急襲し、家康に投げつけたといわれる刀も村正であったという伝承も存在する。

これらの因縁から徳川家は村正を嫌悪する様になり、徳川家の村正は廃棄され、民間に残った村正は隠され、時には銘をすりつぶして隠滅した。

井伊直政と本多忠勝の傷

井伊直政

本多忠勝

徳川家康の配下で有名な武将に、井伊直政と本多忠勝がいる。どちらも勇猛果敢な人物であったが、外様の出である井伊直政は、少しばかり徳川家康の覚えは悪かったようだ。

その為、彼は戦の度に前線に出ては多くの武勲をあげた。だが、最前線とは危険がつきまとう為、彼の体には無数の戦傷が刻まれていた。

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