Bobby Brown(ボビー・ブラウン)とは【徹底解説まとめ】

Bobby Brown(ボビー・ブラウン)とは、1969年2月5日生まれのアメリカのR&Bシンガー。1983年ニュー・エディションのメンバーとしてデビュー。ソロ転向後、1988年のセカンド・アルバム『ドント・ビー・クルエル』が全米アルバムチャート年間1位を獲得し、世界中にニュージャックスウィング旋風を巻き起こす。1990年と1993年にグラミー賞「最優秀男性R&Bヴォーカル・パフォーマンス賞」を受賞。1992年にはホイットニー・ヒューストンと結婚し話題を呼んだ。

Bobby Brown(ボビー・ブラウン)の概要

Bobby Brown(ボビー・ブラウン)とは、1969年2月5日、アメリカ、ボストン生まれのR&Bシンガー。1983年にボーイズグループ「ニュー・エディション」を結成し14歳でデビュー。86年に同グループを脱退するも、翌年にアルバム『キング・オブ・ステージ』でソロ・デビュー。
LA & ベイビーフェイスやテディ・ライリーらをプロデューサーとして起用したセカンド・アルバム『ドント・ビー・クルエル』は全世界で累計1200万枚以上を売り上げ、ミリオンセラーとなり、1989年の全米アルバムチャート年間1位を獲得。世界中にボビー・ブラウン旋風を巻き起こす。アルバムからは「ドント・ビー・クルエル」「マイ・プリロガティヴ」「ロニ」「エブリィ・リトル・ステップ」「ロック・ウィッチャ」などが立て続けにビルボードTop10ヒットを記録、89年には『ゴーストバスターズ 2』のテーマ曲「オン・アワ・オウン」も大ヒットし、6曲連続して全米R&BチャートTOP10ヒットを叩き出した。
1992年にはホイットニー・ヒューストンと結婚し話題を呼んだ。1990年と1993年にグラミー賞「最優秀男性R&Bヴォーカル・パフォーマンス賞」を受賞。
日本でもダンス・ブームの憧れ的存在としてフィーチャーされ、ダンスはもちろんファッションや髪型を真似した多くの“ボビ男”たちが街に出現するなどの社会現象を起こした。

Bobby Brown(ボビー・ブラウン)の活動履歴

誕生~ニューエディション結成

ニューエディションの5人。後列左より、ラルフ、リッキー、ロニー、マイク、中央がボビー・ブラウン

ボビー・ブラウン(本名・ロバート・ベレスフォード・ブラウン ・Robert Beresford Brown)は、1969年2月5日生まれのアメリカ、ボストン出身のポップ、R&B歌手である。ボビー3歳の時に、彼のアイドルであったジェイムス・ブラウンのステージに立ったのがシンガーとしての夢の始まりだった。その後は教会の聖歌隊に参加し、歌唱力を身につけていった。
1978年に幼馴染であったリッキー・ベル、マイケル・ビヴィンス達とボーカル・グループを結成する。(3人のほかにトラヴィス・ペタスとコーリー・ラックリーが在籍)。1982年にマネージャー兼振付師となるブルック・ペインと出会い、グループ名を「ニュー・エディション」とする。(ポスト「ジャクソン5」のような意味合いが込められていた)。コーリー・ラックリー脱退後、ラルフ・トレスヴァントがグループに参加。ラルフはボビーやビヴィンスとも知り合いで、リッキーとは「ラルフ&リッキー」として歌っている仲であった。その後、トラヴィス・ペタスがグループから脱退し、交代でブルック・ペインの甥であったロニー・デヴォーが加入し、オリジナルの5人がここに勢揃いした。

1982年にボストンのストランド・シアターにて、当時プロデューサー、コンポーザーとして活躍していたインディーズレーベル「ストリートワイズ」のオーナーであるモーリス・スターが開催した「ハリウッドタレントナイト」に出演、ニューエディションは2位だったが、感銘を受けたモーリス・スターは翌日、グループを自分のスタジオに連れて行き、デビューアルバムとなる『Candy Girl』の録音を開始した。1983年にモーリス・スターとニューヨークのプロデューサーであるアーサー・ベイカーのプロデュースのもとでStreetwise Recordsからファースト・アルバム『Candy Girl』をリリースする。アルバムからは「Candy Girl」「Is This The End」「Popcorn Love」がアメリカのR&Bシングルチャートでヒットした。「Candy Girl」はボビー・ブラウン、ラルフ・トレスヴァント、リッキー・ベルがリードボーカルをとり、Billboard's R&B Singles Chartでは20位を記録、全英シングルチャートでは1位を記録した。因みにボビーブラウンが初めて1人でソロをとった曲はバラードの「Jealous Girl」で、1983年にマイナーヒットを記録した。
ファースト・アルバム・ツアーから戻った後、モーリス・スターとの契約金をめぐるトラブルが発生、ツアーにかかった費用を言い訳に、メンバーにはギャラとして1.87ドルしか支払われなかった。 その為グループは1984年にモーリスと決別することになった。(その後、モーリスはニュー・エディションをモデルに白人の少年達を集めニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックを結成させ売り出していく)
訴訟を経てStreetwise Recordsとの契約を解除したのちは、大手のレーベル間での入札競争を経て、最終的にメジャーレーベルのMCAレコードと契約を交わし、1984年、セルフタイトルのセカンドアルバム『New Edition (クール・イット・ナウ)』をリリースする。デビューアルバムを凌駕するヒットとなり、「Cool It Now」がビルボード・トップ100で4位、「Mr.Telephone Man」が12位のヒットとなった。アルバムは米国でダブルプラチナ(200万枚)の認定を受けた。
1985年後半には3枚目となるアルバム『All for Love(オール・フォー・ラヴ)』がリリースされる。アルバムから「Count Me Out」「A Little Bit Of Love」などがヒット。プラチナ認定を受けた。人気の高まりを受け、ヒップホップ映画『クラッシュ・グルーブ』にゲスト出演し、「My Secret」のライブ・パフォーマンスシーンが収録された。同年末にクリスマスEP『Christmas All Over The World (クリスマス・オール・オーヴァー・ザ・ワールド)』をリリース。

ニューエディションは5人のボーカルグループだった為、それぞれのメンバーが代わる代わるボーカルを歌っていたが、メインのボーカルはラルフ・トレスヴァントだった。必然的にラルフに注目が集まっていくことにボビーは嫉妬を抱き、ツアー中には予定されていた順番を変えて自分が歌ったり、より目立つ様に歌ったりすることが多くなり、経営陣から疑問視をされるようになった。
そして1985年12月、プライベート等の素行の問題も含め、ボビー・ブラウンはMCAの経営陣から解雇された。しかしグループを離れることを条件にレーベルはソロアルバムの制作を約束しており、1986年にボビーはソロ・アルバム『King of Stage(キング・オブ・ステージ)』でソロ・デビューを果たした。ボビーはバラード「ガールフレンド」でR&BチャートでNo.1ヒットを記録したが、それ以外のヒットはなかった。

ニュージャックスウィングの時代が到来

テディー・ライリー(中央)が結成したニュージャックスウィングユニット「ガイ」

ニュー・ジャック・スウィングとは、1990年代前後に爆発的人気を誇ったビートであり、カラフルなファッションとハイトップな髪型、エネルギッシュなダンスを取り入れた総合的な音楽スタイルである。
それまでストリートの不良達が歌うヒップホップと、洗練されたR&Bの間には大きな壁があった。その壁を取っ払ったのが、ニューヨーク、ハーレム出身の若きヒップ・ホップ・プロデューサー兼キーボード・プレイヤーのテディー・ライリーだった。彼は1986年頃、若干17歳にして、ダグ・E・フレッシュやクール・モー・ディーといったアーティストたちのレコードを手掛け、ヒップホップとR&Bを融合した新しいサウンドを構築した。
キャッチーなメロディにラップとソウルが入り交じり、テンポの早い切れ味明快なアップビートに、どっしりとしたベースラインを特徴とした革新的なスタイルは、瞬く間にシーンを席巻した。1980年代後半から1990年初頭にかけて、多くのニュージャックスウィングのアーティストが登場し、また、アース・ウインド・アンド・ファイアーやウィスパーズ、マイケル・ジャクソンといった大物アーティストも取り入れるほど、ブラックミュージック界はニュージャックスウィング一色となった。1987年、テディーはキース・スウェットのアルバム『Make It Last Forever』をプロデュース、アルバムからは「I Want Her」が大ヒットし、300万枚を売り上げた。
そしてテディーライリーはボビー・ブラウンの2ndアルバムを手がけるのである。

1989年、世界一売れたアルバム『Don't Be Cruel』発表

1989年、アメリカン・ミュージック・アワードにて

ファーストソロアルバムリリース後、ボビーは暫く低迷したが、一年以上をかけて次のアルバムにとりかかる。R&B界の新進気鋭のプロデューサーであったLA・リード&ベイビーフェイスやテディー・ライリーらを招集し、1988年にセカンドソロアルバム『Don't Be Cruel』を発表した。
1980年代初頭より下火になっていたディスコカルチャーは、1980年代半ば以降、ユーロビートの台頭により息を吹き返していたが、R&Bやソウルといった音楽は、ディスコより小規模な「クラブ」で好まれてかかるようになっていた。そしてこの若手プロデューサー達が作りだしていく新しい音楽は、黒人音楽にある種の革命をもたらした。ビルボードHOT100チャートでは、白人アーティストに取って代わるように黒人アーティストのチャートインが目立ってきた。それを牽引したのが新しい音楽「ニュージャックスウィング」であり、ボビー・ブラウンの『Don't Be Cruel』であった。テディーライリーが考案したニュージャックスウィングと同世代のシンガー、ボビー・ブラウンが相乗効果となり、クラブシーンだけではなく、世界中の音楽シーンまでもが様変わりした。『Don't Be Cruel』は全世界で1200万枚を売り上げ、1989年、世界で一番売れたアルバムとなった。
リードシングル「Don't Be Cruel」はニュージャックスウィングの代表曲で、ビルボードR&Bチャートで1位を記録。続くセカンドシングル「My Prerogative」は、白人のチャートであるBillboard Hot 100で初のナンバーワンを獲得した。その他、L.A. ReidとBabyfaceがプロデュースした「Every Little Step」がR&Bチャート1位、ミッドテンポのバラード「Roni」がR&Bチャート2位、そして珠玉のバラード「Rock Wit'cha」がR&Bチャート5位に輝くなど、アルバムからは5枚のシングルが連続TOP10ヒットを記録し、3曲がR&Bチャート1位を獲得し、当時のクラブシーンのみならず、音楽シーンにおいてもエポックメイキングとなり、日本でもボビーブラウンになりたい男子「ボビ男」が流行り社会現象を起こした。ボビーはニュージャックスウィングのアイコン的リーダーとなった。2015年、ビルボードは「史上最高のビルボード200アルバム」のリストで『Don't Be Cruel』を82位にランク付けした。

残されたニューエディションも同年1988年6月20日にリリースされたアルバムから「If It Isn't Love」「Can You Stand The Rain」「N.E. Heartbreak」などのシングルヒットを飛ばし、結果としてグループ最大のヒットとなりアメリカでダブルプラチナムを獲得、全世界では400万枚を売り上げた。
第32回グラミー賞で、ボビーは「エブリ リトル ステップ」で最優秀男性R&Bボーカルパフォーマンスを受賞した。1989年には『ゴーストバスターズ 2』のテーマ曲「オン アワ オウン」も大ヒットし、翌1990年グラミー賞の最優秀R&B男性シンガーも獲得した。

1989年~1990年、ニュージャックスウィングブームの頂点に

ボビー・ブラウン、1990年

1989年、ボビーは『ゴーストバスターズ II』のサウンドトラックに2曲を提供し、映画にも出演した。その中から「On Our Own」が全米2位になり、ボビーにとって6曲連続のTOP10ヒットになった。1990年のMTVアワードではボビーは「Tap into My Heart」を演奏し、アルバム『Mystical Magic』をリリースする予定だったが幻と終わった。
1990年、ボビーはハワイ出身の白人シンガー、グレン・メデイロスのニュージャックスウィングナンバー「She Ain't Worth It」に共演し、見事ビルボードシングルチャートNo.1を獲得した。またベイビーフェイスの「Tender Lover」のリミックスバージョンではラップのバースを披露し、こちらもヒットした。

一方のニューエディションは1990年にグループの活動を停止するが、メンバーはそれぞれのソロ活動を開始する。リッキー・ベル、マイケル・ビヴィンス、ロニー・デヴォーの3人は、プロデューサーであっジャム&ルイスの提案により、トリオユニット「ベル・ビヴ・デヴォー (Bell Biv DeVoe)」を結成。アルバム『ポイズン』は当時のヒップホップ・サウンドを取り入れたニュージャックスウィングの代表的なサウンドとなり、アルバムもクォータブルプラチナム(400万枚)と爆発的なヒットとなった。ジョニー・ギルは2度目のセルフタイトル『Johnny Gill』(邦題『ロンリー・ナイト』)をリリースする。ニューエディション加入以前の1983年に同タイトルの『Johnny Gill』というアルバムをリリースしているが、このアルバムから「My, My, My」「Rub You the Right Way」など、ニュージャックスウィング全開のシングルヒットを飛ばし、アルバムはマルチプラチナムを獲得する。
そんな中1990年、ボビーはMTV Video Music Awardsで久しぶりにニューエディションとの再会を果たす。これがきっかけとなり1991年、ベル・ビヴ・デヴォーのリミックス「Word to the Mutha!」のレコーディングにラルフ・トレスヴァントの他に、ボビー・ブラウンとジョニー・ギルが参加する。ボビーとジョニー・ギルはニューエディションでは入れ違いだった為、同じメンバーだったことはなかったが、ここで初めて6人組の最強ニューエディションが誕生した。
そして1991年にはニューエディション最後の大物、ラルフ・トレスヴァントもまたセルフタイトルのアルバム『ラルフ・トレスヴァント』をリリース。シングル「Sensitivity」は20週間にわたり全米R&Bシングルチャート1位を獲得、その他「Do What I Gotta Do」「Stone Cold Gentleman」などシングルヒットを飛ばし、アルバムはマルチプラチナムを獲得した。ボビーはラルフの「Stone Cold Gentleman」やベル・ビヴ・デヴォーの「BBD (I Thought It Was Me)」のビデオに参加するなど、再びメンバー間の交流をし始める。「Stone Cold Gentleman(ストーン・コールド・ジェントルマン)」はR&Bチャート3位を記録し、時代はまさに、ボビーブラウンや元ニューエディションのメンバーを中心に、ニュージャックスウィングブームが吹き荒れた。

1992年、ホイットニー・ヒューストンとの結婚。サードアルバム『Bobby』

1992年、ボビーはR&Bの歌姫ホイットニー・ヒューストンと結婚した。ホイットニーはこの頃『ボディー・ガード』でも主演女優として活躍し、ボビーとの結婚も含め人生の絶頂期を迎えていた。
1992年、サードアルバム『Bobby』がリリースされた。1988年からニュージャックスウィングで全世界を制覇したボビーだが、1992年のこの頃にはニュージャックスウィングのブームは下火になっていた。にもかかわらずアルバムは300万枚以上を売り上げ「ハンピン アラウンド」「ゲット アウェイ」「グッドイナフ」「トゥー キャン プレイ ザット ゲーム」がヒットした。また、ホイットニー・ヒューストンとのデュエット『サムシング イン コモン』も日本、イギリス等でヒットした。「ハンピン アラウンド」でボビーは2度目のグラミー賞、最優秀男性R&Bボーカルパフォーマンスを受賞した。そして1993年1月には3度目のアメリカンミュージックアワードを受賞した。

その後のボビー・ブラウン

1994年、ダンスプロデューサーのK-Klassがアルバム『Bobby』からの曲「Two Can Play That Game」をリミックスし、このバージョンがイギリスで3位となる大ヒットを記録し、イギリスでのボビーの最大のヒットとなった。
それぞれのソロ活動と成功を経て、1996年、ニューエディションは再結成を果たす。ボビーブラウンやジョニー・ギルも含めた6人体制で始動し、6枚目のアルバム「Home Again」をリリースした。このアルバムで、ボビーは「Hit me Off」と「You don’t have to worry 」の2つのヒットシングルでリードボーカルを務めた。アルバムはビルボード200とR&Bアルバムチャートの両方で1位を記録し、ダブル・プラチナムを獲得する。しかし1997年のアルバムサポートツアーで問題が起きる。ラスベガスのライブでボビーがソロを予定よりも長く歌ったため、ロニー・デヴォーがそれを打ち切って自分のパートを歌い出した為、2人はステージ上で揉めだし、混乱したバックステージではボビーとロニーのガードマン同士が銃を乱射する事態となり、ツアーは途中で終了となってしまった。結果、ニューエディションは再決裂することとなった。ボビーは後に、麻薬中毒とアルコール依存症に苦しんでいたことを認めた。
1997年、4年の歳月を経てボビーは4枚目のソロアルバム『Forever』をリリースしたが、アルバムの唯一のシングル「FeelingI nside」はヒットしなかった。アルバム『Forever』の後、ボビーはMCAを去ったが、その後ボビーは更に数年間低迷した。
2001年にボビーはベンジーノプロジェクトの2つの曲で共演、2002年にはラッパーのジャルールとのデュエット「Thug Lovin'」に参加した。2002年、ニューエディションはボビー抜きで再結成を果たす。2005年の秋、ニューエディションはアメリカの人気ケーブルテレビ番組、「BET25周年記念スペシャル」に出演しヒット曲のメドレーを披露、1985年のヒット曲「Mr Telephone Man」を演奏中にボビー・ブラウンをステージに登場させるサプライズを行った。そして次にボビーがデヴォーとトレスヴァントをバックに「My Prerogative」を披露し、これを機にボビーとニューエディションの面々は和解し、ボビーは再びニューエディションに戻った。2006年、ボビーはダミアン・マーリーのアルバム『ウェルカム・トゥ・ジャムロック』の「Beautiful」にボーカルとして参加した。

2006年9月13日にホイットニー・ヒューストンはボビー・ブラウンとの結婚生活に終止符を打つべく離婚申請書を裁判所に提出し、同年10月に離婚が成立した。2008年、ボビーはデリック・ハンドスパイクが書いた『The Truth, the Whole Truth and Nothing But』というタイトルの本をリリースする予定だった。しかし元妻ホイットニー・ヒューストンについての物議を醸すコメントが事前にメディアにリークされ、ボビーはこのプロジェクトから離れた。ハンドスパイクは、最終的に2012年にホイットニーが亡くなった後にこの本をリリースした。

2008年、ボビー・ブラウン、ラルフ・トレスバント、ジョニー・ギルの3人は「Heads of State」というサイドユニットを結成し、2008年11月から2011年1月まで2年2か月にもおよぶ「サミットツアー」を開催した。2009年6月28日、ニューエディションはBETアワードでマイケルジャクソンに敬意を表してジャクソン5ヒットのメドレーを歌った。2010年、ボビーはMacy Grayのアルバム『The Sell Out』の曲「Real Love』でデュエットした。Macy Grayとはボビーの当時の婚約者を通しての知り合いだった。
2011年7月3日、ルイジアナ州ニューオーリンズで開催されたエッセンスミュージックフェスティバルにニューエディションの6人のメンバー全員が勢揃いし、30周年記念ツアーのスタートを祝った。しかし2012年2月、ボビーは元妻ホイットニー・ヒューストンの死により、ツアーの何日かを辞退することになった。
2012年3月9日と11日、ボビーとベル・ビヴ・デヴォーがナイジェリアにてパフォーマンスを行い、アフリカデビューを果たす。2012年6月5日、ボビーは5枚目のアルバム『The Masterpiece』をリリースした。2012年後半、ニューエディションはソウルトレインアワードセレモニーで特別功労賞生涯業績賞を受賞、6人のメンバー全員がセレモニーのステージに登場した。2017年2月14日、ボビーはバレンタインデー音楽祭でキース・スウェット、アヴァント、エルデバージと一緒に出演した。
2017年にボストンでの幼少期からハリウッドの名声にに至るまでのドキュメンタリー映画『The New Edition Story』がケーブルテレビBETで放送され、最初の1週間とその後のアンコールを合わせて2,840万人が視聴した。2018年にボビー・ブラウンのドキュメンタリー映画『ボビー・ブラウン・ストーリー』がケーブルテレビBETで公開される。同年から2019年にかけてボビー・ブラウンとベル・ビヴ・デヴォーがツアーを行う。
2021年12月、ニューエディションは、アメリカの6つのコンサートプロモーター会社の連合体「Black Promoters Collective」とサインし、全米30都市をまわる「The Culture Tour」を発表した。ツアーは2022年2月16日にジョージア州コロンビアから始まり、2022年4月10日にフロリダ州マイアミで終了した。

Bobby Brown(ボビー・ブラウン)のプロフィール・人物像

ボビー・ブラウン(Bobby Brown、1969年2月5日 - 本名・ロバート・ベレスフォード・ブラウン ・Robert Beresford Brown)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン出身のポップ、R&B歌手である。建設関係の労働者である父、ハーバート・ジェイムズ・ブラウンと、非常勤講師の母、キャロル・エリザベスの元、8人兄弟の1人として生まれた。
1978年にボストンはロクスベリーの同じ小学校に通っていたリッキー・ベル、マイケル・ビヴィンス達とボーカル・グループを結成する。その後、友達であったラルフ・トレスヴァントを加え、更にロニー・デヴォーが加入し、ボーカルグループ「ニューエディション」が誕生する。

1983年にはファースト・アルバム『Candy Girl』をリリースする。デビューシングル「Candy Girl」はインディーズながらもBillboard's R&B Singles Chartで20位を記録、全英シングルチャートでは1位を記録する大ヒットとなった。1984年のセカンドアルバム『New Edition (クール・イット・ナウ)』では「Cool It Now」や「Mr.Telephone Man」のヒットを飛ばし、ニューエディションは瞬く間にアメリカのトップ・ティーン・アイドルとなったが、この頃からボビーは、メインボーカルがラルフ・トレスヴァントであることに不満を抱くようになり、プライベートでの素行不良も問題になっていた。そして1985年12月、レーベルからはソロアルバムを制作することを条件に、ボビー・ブラウンはニューエディションから解雇された。

1986年のデビュー・ソロ・アルバム『King of Stage(キング・オブ・ステージ)』では「ガールフレンド」以外のヒットは生まれなかったが、セカンドアルバム『Don't Be Cruel』では新進気鋭の若きプロデューサーであったLA・リード、ベイビーフェイス、テディー・ライリーらを招集し、これが大当たりした。ニューエディションで培ってきたダンスと歌唱力に、若きプロデューサー達の新しい音楽スタイル「ニュージャックスウィング」が高度な化学反応を起こし、ボビー・ブラウンだけでなく、ヒップホップやR&Bといった黒人音楽そのものが一気にスターダムにのし上がった。ワイルドでキレキレのダンスを披露しながら、新しい音楽を披露するボビーは瞬く間に若者達のアイコンとなった。『Don't Be Cruel』からは5曲のトップ10シングルと、『ゴーストバスターズ 2』のテーマ曲「オン アワ オウン」も大ヒットし、6曲連続でトップ10ヒットの偉業も達成し、ソロになってすぐに世界を制覇した。『Don't Be Cruel』は全世界で1200万枚を売り上げ、1989年、世界で一番売れたアルバムとなり、1990年グラミー賞の最優秀R&B男性シンガーも獲得した。

1992年、ボビーはR&Bの歌姫ホイットニー・ヒューストンと結婚し大きな話題となった。人気絶頂の二人の結婚は祝福されたが、しかしこの結婚の結果、二人揃って転落の人生の始まりとなる。
1992年、サードアルバム『Bobby』からも「ハンピン アラウンド」「ゲット アウェイ」「グッドイナフ」「トゥー キャン プレイ ザット ゲーム」がヒットし、「ハンピン アラウンド」でボビーは2度目のグラミー賞、最優秀男性R&Bボーカルパフォーマンスを受賞した。しかしこの頃を境に、一世を風靡したニュージャックスウィングも下火になり、それと並行するようにボビー・ブラウンの不倫、DV、交通違反等のプライベートの素行問題がクローズアップされ、ボビーの人気はがた落ちとなる。
その後ボビーはニューエディションに復活したり、素行不良で再度脱退したりとバッドボーイぶりは変わらず、流れてくるニュースはドラッグに依存するボビーと妻ホイットニー・ヒューストンの話題ばかりとなっていった。2006年にはホイットニー・ヒューストンと離婚が成立するが、ボビーはその後すぐにアリシア・エスリッジと再婚。
2012年にはホイットニー・ヒューストンがホテルの浴室でドラッグによる溺死という痛ましい結末となり、ボビーは完全に男を下げた形になった。その後もホイットニーとの一人娘であるボビー・クリスティーナ・ブラウン、ホイットニーと結婚する前に交際していた女性との子供、ボビー・ブラウン・ジュニアを次々に亡くすという悲劇に見舞われる。近年は残された子供たちや妻のためにドラッグを断ち、ニューエディションにも復帰し活動を続けている。ソロアルバムリリースの話も上がっているが、長引くコロナの影響で実現には至っていない。

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