TOTO(トト)の徹底解説まとめ

TOTO(トト)とは、アメリカ、ロサンゼルスの凄腕スタジオミュージシャン達が集まって1977に結成されたバンドである。1978年、アルバム『TOTO~宇宙の騎士』でデビュー、1982年のアルバム『TOTO Ⅳ~聖なる剣』はグラミー賞6部門を制覇、「ロザーナ」「アフリカ」といったロック史に残る名曲を発表した。また、メンバー各々がスタジオミュージシャンとしても活躍し、関わったアルバムは5000枚にも及ぶといわれている。結成40周年を超えた今も世界を巡り活動を続ける、ロック界のレジェンドである。

1948年8月5日生まれ。TOTOの初代ベーシスト。1982年4枚目のアルバム『聖なる剣』まで在籍するが、その後のツアーで、家族との時間を優先したいとの理由でバンドを脱退した。なお同アルバムのシングル「ロザーナ」はハンゲイトが演奏しているものの、その後撮影されたプロモーションビデオには後任のマイク・ポーカロが映っている。
1970年代からセッションミュージシャンとして活躍し、ボズ・スキャッグスの『シルク・ディグリーズ』のセッションを契機にTOTOの結成メンバーになる。TOTOを脱退した後は、ナッシュヴィルに移り、音楽プロデュースやアレンジ、セッションミュージシャンとして活動した。また、ジョー・ヴァナとファーギー・フレデリクセンが率いるAORスーパーグループであるメッカにも加入した。ファーギー・フレデリクソンはTOTOの2代目ボーカリストである。2014年、ハンゲイトはTOTOのツアー・ベーシストであったネイザン・イーストの脱退により再びTOTOに加入した。最初は、2014年のツアー後に引退すると発表されたが、2015年までTOTOとのツアーを続け、最終的に大規模なツアーを引退すると発表された。彼はまた、アルバム『TOTO XIV〜聖剣の絆〜』の4曲で演奏した。

Mike Porcaro(マイク・ポーカロ /b)

本名マイケル・ジョセフ・ポーカロ(Michael Joseph Porcaro)ポーカロ兄弟の次男でベーシスト。1955年5月29日生まれ、 2015年3月15日没。
高校時代より、兄弟のジェフ、スティーヴや、デヴィッド・ペイチ、スティーヴ・ルカサーらとともにバンド活動を始める。その後はセッションミュージシャンとして活動するが、1982年『TOTO IV(聖なる剣)』リリース直後に脱退したデヴィッド・ハンゲイトの後任としてTOTOに加入する。その後はTOTOの正式メンバーとして活動を続けるが、2007年に筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症し、コンサートツアーにはリーランド・スカラーが代役として参加する。しかしマイケルの復帰は果たせず、TOTOも正式に解散する。
2010年、マイク救済のためにペイチやルカサー、弟のスティーヴらがTOTOを期間限定で再結成し、ツアーを開催する。ベースにはフォープレイのネイザン・イーストが代役を務めたが、TOTOの公式サイトでのメンバー一覧では、療養中も正規メンバーとしてそのまま扱われていた。2015年3月15日午前0時14分、自宅で家族に看取られながら死去した。享年59歳。

Fergie Frederiksen(ファーギー・フレデリクセン /vo )

本名:デニス・ハーディ・フレデリクセン (Dennis Hardy Frederiksen)1951年5月15日 ミシガン州グランドラピッズで、デンマーク系の家庭に生まれる。TOTOの2代目ボーカリスト。2014年1月18日没。13歳の時から歌い始め、中央ミシガン大学1年の時には体操でミシガン州チャンピオンとなり、将来のオリンピック選手として期待された。しかし、体操ではなくミュージシャンの道を決意する。1975年に、友人である MSファンクのリード・ボーカリスト、トミー・ショウが、スティクス加入のためフレデリクセンに代役を依頼、1976年のMSファンク解散まで同バンドに在籍した。その後はセッション・ワークや映画音楽やコマーシャル・ジングルなどの活動を主体とし、トリリオンやエンジェルと言ったバンドでボーカルを歴任する。1982年、カンサスのリードボーカリストのスティーヴ・ウォルシュが脱退。サミー・ヘイガーを含む200人が挑んだオーディションでジョン・エレファンテと争ったが敗北する。しかし、同バンドのマネージャー、バッド・カー (Budd Carr)の目に留まり、その縁で、サバイバーの新リード・ボーカルに決まりかけたが、全米No.1アルバム『アイ・オブ・ザ・タイガー』のバック・ボーカルを担当しただけで終わってしまう。1983年には、かつてボビー・キンボールも在籍していた、ル・ルーに加入、アルバム『ソー・ファイアード・アップ』をリリースする。フレデリクセンと女優キャリー・ハミルトンとの破局を描いた曲「キャリーズ・ゴーン」は全米チャート79位を獲得する。なお、ハミルトンは日米合作映画『TOKYO-POP』でダイヤモンドユカイと共に主演している。チャンスは更に訪れる。フレデリクセンのデモ・ビデオを観たTOTOのドラマーのジェフ・ポーカロが興味を示し、ボビー・キンボールの後任ボーカリストのオーディションを受ける。ジェフ・ポーカロが強くフレデリクセンを推したこともあり、最終選考では、後にミスタービッグのボーカルとなるエリック・マーティンを退け、晴れて2代目リード・ボーカルの座を獲得した。1984年、5枚目のアルバム『アイソレーション』を発売するも、次作『ファーレンハイト』ではバック・ボーカル1曲のみ参加しただけでTOTOを脱退する。スタジオワーク等のパフォーマンスに不満を持つスティーブ・ルカサーとの対立も一因とされている。
その後も様々な人脈からバンドを渡り歩き、2012年6月にはTOTOの初代ボーカリストのボビー・キンボール、元シカゴのビル・チャンプリン、元ジャーニーのスティーヴ・オージェリーと「Voice Of AOR」として来日し、アルバム『アイソレーション』からTOTOのナンバー4曲を披露した。2014年1月18日、ミネソタ州マウンド市の自宅にて、肝臓癌により死去した。

Simon Phillips(サイモン・フィリップス /dr)

1957年2月6日イギリス・ロンドン生まれ。父親シド・フィリップスはイギリスジャズ界の著名なプロ・クラリネット奏者である。
1992年から2013年まで、亡きジェフ・ポーカロの後任ドラマーとして20年以上に渡りTOTOに加入していた。「ローリング・ストーン誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のドラマー」において17位。3歳からドラムを始め、6歳の頃には50歳以上離れていた父のバンドでBBCの録音に参加するなどの活動を行っていた。12歳には既にプロとなっており、本人曰く「フルタイムで演奏の仕事をし、パートタイムで学校へ通っていた」と語るように学業よりも音楽業が中心となっていた。16歳で父が死去するとバンドから独立し、セッションプレーヤーとしての活動を開始。この頃からジャズ以外の音楽にもアプローチし、ジェフ・ベックのようなロック・インストゥルメンタルからザ・フーなど幅広いアーティストをサポート。更にマイケル・シェンカー・グループのデビューアルバムへの参加や、ホワイトスネイク、ジューダスプリーストとの活動等を経て、ハードロック、ヘビーメタル界で不動の地位を築く。1986年、ジェフ・ベックの軽井沢公演に同行、カルロス・サンタナとスティーヴ・ルカサーがセッション参加しており、ルカサーと初めて共演した。1988年には、初のソロ・アルバム『プロトコル』を発表。同年、ミック・ジャガー・バンドのドラマーとして来日。東京ドームのこけら落とし公演に参加する。1992年には、X JAPANのTOSHIのファースト・ソロ・アルバム『made in HEAVEN』に全面的に参加。また、嵐のレコーディングにも参加(「WAVE」などの楽曲)。1992年、TOTOのドラマー、ジェフ・ポーカロの追悼ツアーにジェフの代役として参加、そのままTOTOの2代目ドラマーに就任する。これまでバンドの固定メンバーとして活動することがほとんどなかったサイモンがひとつのバンドに正式メンバーとして参加するのは珍しく、その理由については、TOTOのメンバーは非常にプロフェッショナルな実力派プレーヤの集団であるからと語っている。
TOTOは2008年7月には正式に解散するが、2年後の2010年から、病に倒れたマイク・ポーカロ支援のために再結成し、サイモンも参加した。2014年1月、20年以上在籍したTOTOを脱退し、それ以降はセッションミュージシャンや自己のプロジェクト等で精力的に活動している。

Greg Phillinganes(グレッグ・フィリンゲインズ /key)

1956年5月12日ミシガン州デトロイト生まれのキーボーディスト兼歌手。本名:グレゴリー・アーサー・フィリンゲインズ (Gregory Arthur Phillinganes)マイケル・ジャクソンやプロデューサーのクインシー・ジョーンズの一派として数々のミュージシャンとセッションをしている。
1976年スティービー・ワンダーに気に入られ、バックバンドに加入。その後、主にR&Bやフュージョンの分野を中心に、スタジオ・ミュージシャンとして活動。1979年にはマイケル・ジャクソンのアルバム『オフ・ザ・ウォール』に参加し、その後もマイケルの作品の制作に深く関わっていく。1981年、初のソロ・アルバム『処女航海』発表。同作からのシングル「Baby, I Do Love You」はビルボードR&Bチャートで72位に達した[。1984年発表のセカンド・ソロ・アルバム『パルス』を発表。このアルバムはAORファンの間で幻の名盤とされ、一時期オークションで高値で取り引きされていた。このアルバムにはYMOのカヴァー「ビハインド・ザ・マスク」が収録されている。この曲は元々マイケル・ジャクソンの『スリラー』に収録予定だったが、作者の坂本龍一とマイケル・ジャクソンとの条件が合わずお蔵入りとなった。それを最初に取り上げたのがフィリンゲインズで、更に当時グレッグがバックを務めていたエリック・クラプトンも自身のアルバム『オーガスト』(1986年)で「ビハインド・ザ・マスク」を取り上げた。またマイケルの死去後の2010年に発表された未発表曲集『Michael』に遂にマイケル版「ビハインド・ザ・マスク」が収録された。
2005年、以前よりサポートメンバーとして同行していたTOTOに正式加入。キーボード演奏だけでなく、一部の楽曲ではリード・ボーカルも担当した。デヴィッド・ペイチが抜けた後は、過去のヒット曲を演奏する時に、ペイチとスティーブ・ポーカロ2人のパートを1人でこなすと言う超絶技巧を披露した。2008年のTOTO 解散まで籍を置いたが、2010年の再結成には参加せず、公式サイトでも元メンバー扱いとなっている。

Jean-Michel Byron(ジャン=ミシェル・バイロン /vo )

南アフリカ、イーストロンドン生まれ。アパルトヘイト時代の黒人居住地区の出身。
TOTOの4代目ボーカリスト。TOTOには4人のボーカリストが在籍したが、その中でもファンの間で「黒歴史」と呼ばれる程、物議を醸したボーカリストである。彼は1983年頃からセッションシンガーとしてキャリアをスタートさせた。TOTOの3代目ボーカリスト、ジョセフ・ウィリアムスが薬物使用などにより声が出なくなりバンドを脱退した事に伴い、初代ボーカリストのボビー・キンボールの復活が予定されていたが、レコード会社のゴリ押しにより、バイロンが4代目に就任した。結果、この加入が物議を醸すこととなる。TOTOの初のベスト・アルバムである『グレイテスト・ヒッツ』 (Past to Present 1977-1990)で、追加収録された新曲4曲でボーカルを務めた。結局バイロンが参加したのはこの一枚だけで、アルバムは一定の成功を収めたが、1990年のアルバムツアー中に、バイロンとバンドは公然と衝突するようになる。彼のステージ上での道化の様な衣装や、マイケルジャクソンを彷彿するようなソフトなボーカルパフォーマンスはバンドの方向性や、それまでの歴代ボーカリストの立ち振る舞いと比べて明らかに異質だった。スティーブ・ルカサーは後に自伝で、「俺たちをバックバンド扱いした」とか「ステージングが俺たちと致命的に合わない」とか「俺たちは歩み寄ろうとしたのに奴は殻に籠っていた」とか散々に語っている。コンサート参加者の中には公演中に彼にファックサインを出したり、やじを飛ばす人さえいた。今では公式サイトにも彼の名前は無く、メンバー扱いもされていないが、彼が4代目ボーカリストであったことは事実である。彼のハイトーンボイスは、歴代ボーカリストと比べると線が細くエネルギー不足、TOTOの骨太の演奏とはミスマッチだと言う意見も多いがアルバムに収録されたバイロン在籍時の名曲「Out Of Love」を聴けば、当時全米シーンを彩っていた、リチャード・マークスばりのソフトで艶やかなサウンドを聴く事が出来る。ちょうどこの頃、スティーブ・ルカサーもリチャード・マークスのバックで演奏していた。ヒットチャートにおける両者の決定的違いはボーカリストが主役か、バンドが主役かの差と言える。当時の音楽シーンは、カリスマ性のあるフロントマンに、よりスポットライトが当たり、TOTOの様なバンドアーティストにスポットが当たらない時代だった。TOTOにはフロントマンが不在であった。バイロンがそのフロントマンを意識したとしても理解できる。しかしTOTOはそれを受け入れなかった。TOTOは誰もが歌えて、しかも凄腕のプレイヤーの集まりである。決してヴォーカリストがメインでは無かったことが、この軋轢を生んでしまったと言える。バイロンが解雇されたとき、TOTOは再び岐路に立っていた。バイロンが参加したアルバムが批評家達からは好評価を得ていたにもかかわらず、ファンによる反バイロン感情は蓄積され、前述のツアーで撮影されたTOTOのライブ・ビデオから彼の曲を全てカットされる事態にまでなっていた。
TOTOから解雇された後、バイロンは「Love Has the Power」の別バージョンを含む、『Byron』というタイトルのソロ・アルバムをリリースした。

TOTO(トト)のディスコグラフィー

TOTO(宇宙の騎士)

01. Child's Anthem
02. I'll Supply the Love
03. Georgy Porgy
04. Manuela Run
05. You Are the Flower
06. Girl Goodbye
07. Takin' It Back
08. Rockmaker
09. Hold the Line
10. Angela

当時のL.Aの音楽シーンにおいて衝撃となったTOTOのデビュー・アルバム。デビュー作にはアーティストが目指す方向性が表れる。つまりこのアルバムはTOTOの羅針盤であり、TOTOの魅力が凝縮されている。その意味において、既にファーストアルバムにして彼らの代表作となったアルバムである。収録曲は全てオリジナル。曲作りの中心はデヴィッド・ペイチで、10曲のうち8曲をペイチが書いている。残り2曲はキンボールとスティーブ・ポーカロが1曲ずつ(トラック5, 7)を担当した。リード・ヴォーカルはボビー・キンボールだが、曲によってメインボーカルが変わるのがTOTOの特徴であり、メイン・ヴォーカルのキンボールが4曲(2, 5, 6, 9)、ペイチが2曲(4, 8)、ルカサーが2曲(3, 10)、スティーブが1曲(7)を担当している。プログレからロック、ソウル、ジャズ、AOR、インストゥルメンタルとジャンルの異なった優れた曲を作成する能力を世に示した大傑作アルバムである。アルバムは全米チャートの9位を記録し、デビュー作にしてトップ10入りを果たした。シングルは、1stシングルの「Hold the Line」が全米チャートの5位にランクイン。2ndシングルの「I'll Supply the Love」は45位、3rdシングルの「Georgy Porgy」は48位をマークしている。翌年のグラミー賞ではTOTOが "Best New Artist" にノミネートされるも、受賞は逃した。ちなみに、The Cars, Elvis Costello, Chris Reaもノミネート。受賞したのは、デビュー・シングル「Boogie Oogie Oogie」が全米1位の大ヒットとなった「A Taste of Honey」」だった。

Hydra(ハイドラ)

01. Hydra
02. St. George and the Dragon
03. 99
04. Lorraine
05. All Us Boys
06. Mama
07. White Sister
08. A Secret Love

1979年発表のセカンド・アルバム。前作の多種多様な楽曲構成から、TOTOのロック性を発揮したといわれるアルバムで、ロック曲はよりハードに、メロウな曲はよりメロウに練り上げられた。世間で言われているような「セッション・プレイヤーの一時的な集まり」ではなく、「自分たちの本業はロック・バンドで、セッション・プレイヤーは副業だ」ということをアピールした様な作品に仕上がっている。収録曲の半分、「Hydra」「St. George and the Dragon」「All Us Boys」「White Sister」の4曲はエッジの効いたロック・ナンバーで、残り半分はバラードの「99」「A Secret Love」、ポップな「Lorraine」、ソウル調の「Mama」となっている。特にスティーブ・ルカサーがボーカルを担当する「99」はこのアルバムの唯一のヒットで、チャート的には全米26位にとどまったが、AORファンの間では人気の高い哀愁バラードで、TOTOの代表曲の一つでもある。ヴォーカル以外は全て一発録りで、ライヴ感のあるスリリングな音に表れている。ロック・バンドとしてのTOTOの魅力と、プロの演奏家としての実力を見せつける名作。アルバムのほとんどの曲をデヴィッド・ペイチが書いているが、ラストの「A Secret Love」はスティーヴが主体。キンボールも3曲(6-8)で共作者になっている。
ビルボード誌アルバムチャートで第37位、アメリカで50万枚、世界でも200万枚のヒットにとどまり、前作の大成功から比べると、セールスは半分に落ち込み、失敗作とみなされることもあるが、TOTOのファンの間では人気の高い名アルバムである。

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