TOTO(トト)の徹底解説まとめ

TOTO(トト)とは、アメリカ、ロサンゼルスの凄腕スタジオミュージシャン達が集まって1977に結成されたバンドである。1978年、アルバム『TOTO~宇宙の騎士』でデビュー、1982年のアルバム『TOTO Ⅳ~聖なる剣』はグラミー賞6部門を制覇、「ロザーナ」「アフリカ」といったロック史に残る名曲を発表した。また、メンバー各々がスタジオミュージシャンとしても活躍し、関わったアルバムは5000枚にも及ぶといわれている。結成40周年を超えた今も世界を巡り活動を続ける、ロック界のレジェンドである。

TOTO(トト)の概要

TOTO(トト)とは1977年に「L.A.を代表するセッションマン達が結成したアメリカのスーパーグループ」である。オリジナルメンバーはジェフ・ポーカロ(dr)デヴィッド・ペイチ(p)スティーヴ・ルカサー(g)デヴィッド・ハンゲイト(b)スティーブ・ポーカロ(key)ボビー・キンボール(vo)の5人。1975年、ボズ・スキャッグスの名盤『シルク・ディグリーズ』のバックバンドに参加したジェフ、ペイチ、ハンゲイトの3人が意気投合してTOTOを結成。翌1978年、デビューアルバム『TOTO~宇宙の騎士』を発表、ファーストシングル「ホールド・ザ・ライン」は全米5位を記録した。アルバム自体もアメリカで200万枚、世界で450万枚というセールスを記録する大ヒットとなった。1982年の4作目のアルバム『TOTO Ⅳ〜聖なる剣』は1200万枚を売り上げる大ヒットとなり、グラミー賞で6部門を制覇、「ロザーナ」「アフリカ」といった大ヒット曲が生まれた。それぞれのメンバーはTOTOでの活動と並行して、スタジオミュージシャンとしても活躍し、マイケル・ジャクソンの人類史上最も売れたアルバム『スリラー』をはじめ、80年代はTOTO抜きでは語れないという程、様々なアーティストのヒット作品に関わった。1992年にリーダーのジェフ・ポーカロが事故により死去し、2015年にはマイク・ポーカロが病により亡くなるなど、バンドは幾度のメンバーチェンジを繰り返しながら今日に至っている。TOTOはバンドとしてだけではなく、個々のメンバーがセッションアーティストとして活躍し、アメリカの音楽シーンに大きな足跡を残してきた。メンバーのソロ活動を統合すると、参加したアルバムは5,000枚、合計売上枚数5億枚という驚異的な数になる。この中からは200枚以上がグラミー賞候補になっており、累計ではSpotifyだけで4億ストリーム以上、YouTubeは5億ビューをはるかに超えている。デビューから40年、何千もの作品にクレジットされ、多くの賞賛を浴びるTOTOは今でも世界のトップ・アーティストとしてツアーやレコーディングを続けている。TOTOのレパートリーは常に世界中で演奏され、その音楽は色あせることがない。変化の激しいトレンドやスタイルの波を乗り越えて多世代のファンから支持される数少ないレジェンドのひとつである。

TOTO(トト)の活動履歴

1978: 結成~デビューアルバム 『TOTO(宇宙の騎士)』

TOTOは元々、主にLAで活躍していた敏腕スタジオミュージシャン達が結成したバンドである。その中心人物は(ピアノ、キーボード、ボーカル)のデヴィッド・ペイチと(ドラム)のジェフ・ポーカロの2人。彼らは地元サン・フェルナンド・ヴァリーのグラント・ハイスクールの同級生であり、高校では「Rural Still Life」と言うバンドを結成していた。彼らの父親同士も知り合いであった。デヴィッド・ペイチの父マーティはセッションミュージシャン兼編曲家で、ポーカロ兄弟の父ジョーは有名なパーカッショニスト。お互いハリウッドのミュージック・シーンで活躍し、グレン・キャンベルのTVショーでの仕事以来親友であったことからデヴィッドとジェフは13歳以来親交を持っていた。
1972年ジェフ・ポーカロが「ソニー&シェール」のツアーに参加するためバンドを脱退。このツアーには、後にTOTOの初代ベーシストになる、デヴィッド・ハンゲイトも加わっていた。
一方で、ジェフの弟のスティーヴ・ポーカロもグラント・ハイスクールでスティーヴ・ルカサーと同級生であった。彼らはジェフとペイチがかつて結成していたバンド「スティル・ライフ」を再結成し演奏活動を続け、数ヶ月後にはホール&オーツを始めとするいくつかのグループからセッションの誘いがかかるまでになった。
TOTO結成の萌芽は1974年まで遡る。この頃ジェフはスティーリー・ダンなどのレコーディングに参加、ペイチはドゥービー・ブラザーズのアレンジャーとして参加していた。そんな彼らにビッグ・チャンスが訪れる。1975年、ボズ・スキャッグスの名盤『シルク・ディグリーズ』への参加である。このアルバムで彼等は陰の立役者として大きく貢献し、一躍スポット・ライトを浴びることになった。このセッションでジェフ、ペイチ、ハンゲイトの3人は意気投合し、その後ボズのマネージャーであったドン・エリスの口ききによってグループ結成が実現することになる。ペイチとジェフは、ハイスクールを卒業したての後輩スティーヴ・ルカサーとスティーヴ・ポーカロを誘い、更にスティーリー・ダンで一緒だったマイケル・マクドナルドをボーカルに誘うが、マイケルはオファー3日後にドゥービー・ブラザーズに加入してしまう。その後メンバーは、S.S.フーズのメンバーであったボビー・キンボールを誘い、1977年、ジェフ、ペイチ、ハンゲイト、ルカサー、スティーブ、キンボールの5人でTOTOを結成する。1978年CBSと契約。10月にデビュー・アルバム『TOTO』を発表、全米プラチナ・ディスク(100万枚)となる。デビュー・シングル「ホールド・ザ・ライン」は全米5位に入る大ヒットとなった。更に第21回グラミー賞“ニュー・アーティスト・オブ・ジ・イヤー”にエントリーされ、一躍ビッグ・グループとして注目を集める事となった。

1979-1981: 『ハイドラ』と『ターンバック』

1979年11月、2ndアルバム『ハイドラ』をリリース、前作から更にロックよりにシフトした好盤となったが、シングル「99」は全米26位という小ヒットに終わり、アルバム自体も全米37位と、セールス的に前作に及ばなかった。1980年3月に初来日。追加公演2回を含む全10公演すべてソールド・アウトとなり、日本でのスーパー・グル一プとしての地位を築きあげた。1981年、3枚目のアルバム『ターン・バック』をリリース。リード・シングル「グッバイ・エレノア」は日本で大ヒットし、国内での躍進を証明したがアメリカではヒットしなかった。バンドはこの時点で約2年間ヒットがなかった為にキャリアの危機を迎えていた。1981年12月15日、ボビー・キンボールは覆面警察官にコカインを売った容疑で逮捕された。

1982-1985: 『TOTO Ⅳ~聖なる剣』の成功と『アイソレーション』

前2作のセールス的な低迷を受けて、バンドはレコード会社から大きなプレッシャーを受けていた。「君達はアーティストとしてアルバムを作りたいのか?それでセールスを上げることは出来るのか?」事実上の最後通告である。バンドはもう一度、ファーストアルバム作成時の原点に立ち返った。実際デヴィッド・ペイチは、次のアルバムが売れなかったら、バンドとの二刀流は諦めて、セッションミュージシャンに専念しようと、まさに背水の陣でアルバム制作を開始した。それにより完成した1982年、TOTO4作目のアルバム『TOTOⅣ 聖なる剣』は予想を遥かに上回る大ヒットを記録、アメリカでは300万枚、全世界では1200万枚を売り上げ、TOTOはこのアルバムで頂点を極めた。アルバムはグラミー賞で6部門を獲得、それまで様々な名アルバムにセッションとして参加してきた彼らが、自らのバンドでそれらを超える栄誉を手にした。事実このアルバムのヒットのおかげでTOTOはCBSと再契約を結ぶことができたと彼ら自身が後に語っている。これにより元々多かったセッションワークも増えた。その中にはマイケル・ジャクソンの『スリラー』への参加等も含まれる。マイケル・ジャクソンの代表曲「ヒューマン・ネイチャー」はスティーブ・ポーカロによって作曲され、また『スリラー』では4曲でTOTOメンバーがプレイしていることから、「マイケル・ジャクソンwith TOTO」もしくは「TOTO featuring マイケル・ジャクソン」とまで言われることもあった。実際これ以外にも多くのヒットアルバムにTOTOのメンバー達が関わっており、この当時の全米音楽シーンは、TOTO抜きでは語れないほどだった。しかし『TOTOⅣ 聖なる剣』の成功により、家族との時間が妨げられると感じたベースのハンゲイトがバンドを去り、代わりにポーカロ兄弟の次男、マイク・ポーカロがメンバーに加わった。また、リードシンガーのボビー・キンボールは1983年の初めに麻薬関連の容疑で起訴された。キンボールは無罪を主張し、容疑はその年の5月28日に却下されたが、1984年に、ボーカルの録音が困難で多数のセッションを欠場したため、バンドから解雇された。この年、TOTOは映画『デューン』のサウンドトラックのほとんどを作曲した。「これもまた一つの生き方だったが、やはり米国ツアーはしっかりやっておくべきだった」と、スティーヴ・ルカサーは自著でアリーナ・ロック・バンドへの機会を失ったと後悔をにじませてる。
キンボールに代わるヴォーカリスト選びは難航した。バンドはペイジズのリチャード・ペイジにオファーしたものの、リチャードは既にMr.ミスターを始動させることになっていたため断られ、その後ルカサーが、のちにMr.Bigのボーカリストになるエリック・マーティンの加入を推すものの、最終選考でジェフが推薦するファーギー・フレデクセンに決定した。
1984年、新メンバーによるTOTO5枚目のアルバム『アイソレーション』がリリースされた。ファーストシングル「ストレンジャー・イン・タウン」がヒットし、前作程のセールスは達成出来なかったものの、ゴールドディスク(50万枚)を達成した。アイソレーションのツアーは1985年2月に始まり、日本での武道館公演も含み、5月に終了した。

1985-1988: 『ファーレンハイト』『ザ・セブンス・ワン〜第7の剣』とジョセフ・ウィリアムズ

1985年の3ヶ月に及ぶアイソレーションツアーが終わると、ファーギー・フレデリクセンは解雇された。スティーヴ・ルカサーによると「レコーディングの際にファーギーに難があり、バンドとうまくかみ合わなかったため」と理由を述べた。1986年の初めにバンドはオーディションを行い、最終選考に勝ち上がったのはまたしても、後のMR.BIGのボーカリスト、エリック・マーティンだった。しかし結果的には、ジョセフ・ウィリアムズが3代目ボーカリストに選ばれた。因みにジョセフの父親のジョン・ウイリアムズは映画音楽家で、これまでに『スター・ウォーズ』、『シンドラーのリスト』、『未知との遭遇』、『スーパーマン』、『E.T.』、『インディ・ジョーンズ』、『ホーム・アローン』、『ジョーズ』、『ジュラシック・パーク』、『ハリー・ポッター』などの多くの映画音楽を作曲しており、グラミー賞25回、アカデミー賞5回受賞しているアメリカ映画音楽界の大家である。
1986年10月、6作目のアルバム『ファーレンハイト』をリリース。アルバムからはルカサーがボーカルを務め、元ドゥービーブラザーズのマイケル・マクドナルドがバックボーカルを務めるバラード「I’ll be over you 」がヒットした。1987年、キーボードのスティーブ・ポーカロは、映画やテレビ音楽のキャリアを追求するためにバンドを去った。アルバム『ファーレンハイト』は最終的に1994年10月3日にゴールドディスクを達成した。1987年にCDの生産数がレコードの生産数を上回り、CDの時代が到来する。
1988年、TOTOは7枚目のアルバム『セブンス・ワン』をリリースし、ジョセフがリードボーカルを務める「パメラ」がヒット。結果的にこれがTOTOの最後の全米トップ30ヒットとなった。TOTOの10年間の完成形とも言われるアルバムに仕上がったが、商業的には前作と同じくらいに終わった。80年代後半から90年代にかけて、時代の流れはTOTOやジャーニーと言ったかつてのハードなアリーナ・ロックバンドから、より自然体でナチュラルなソロアーティストや、或いはヒップホップ、ニュージャックスウィングと言った黒人アーティストが主流になり始めていた。

1988-1990: 『Past to Present 』そしてジャン=ミシェル・バイロン

「セブンス・ワン・ツアー」は大成功を収めたが、リードシンガーのジョセフ・ウィリアムスが薬により声が出なくなり、ツアー終了後に解雇された。バンドは後任に、オリジナルメンバーのボビー・キンボールを指名し、新曲「ゴーインホーム」を録音した。ところが、レコード会社は代わりに南アフリカの歌手ジャン=ミシェル・バイロンを指名した。バンドはバイロンを4代目リードボーカリストとして迎え、初のベストアルバム『Past to Present 』をリリース、新曲4曲を追加した。しかしバンドはバイロンとうまくいかなかった。まるで歌姫のように振る舞うバイロンと、ツアー中に何度も摩擦を引き起こし、最終的にバイロンはベストアルバム1枚に参加しただけで解雇された。またこの頃、ジョセフ・ウィリアムスも麻薬関連の容疑で逮捕された。1989年、ルカサーの初ソロアルバム『ルカサー』がリリースされ、エディ・ヴァン・ヘイレンやリチャード・マークスなどのミュージシャンが出演した。

1991-1992: 『キングダム・オヴ・デザイア〜欲望の王国』とジェフ・ポーカロの死

リードボーカリスト不在になったTOTOは、後任を選ぶことはせず、ギタリストのスティーヴ・ルカサーがリードボーカルを引き継ぐことにした。1991年にモントルー・ジャズ・フェスティバルに出演、翌1992年にTOTOは8作目のスタジオアルバム『キングダム・オヴ・デザイア〜欲望の王国』を発表する。このアルバムの完成直後の1992年8月5日、バンドのリーダーであったジェフ・ポーカロが自宅の庭で防虫剤をまいていたところ、アレルギーで心臓発作を起こし死去した。38歳だった。バンドはロサンゼルスに拠点を置くイギリス人サイモン・フィリップスに連絡を取った。フィリップスは1986年に日本でサンタナとジェフ・ベックとのツアーでジェフと働いたことがあり、ポーカロはフィリップスを気に入っていた。フィリップスはジェフの後を受けて、後任ドラマーに就任した。1992年12月14日、ユニバーサル・シティのユニバーサル・アンフィシアターで、ジェフ・ポーカロ追悼コンサートが開催された。出演者は、ドン・ヘンリー、エディ・ヴァン・ヘイレン、ドナルド・フェイゲン、ウォルター・ベッカー、ボズ・スキャッグス、ジェームズ・ニュートン・ハワード、マイケル・マクドナルド、リチャード・マークス等。特別ゲストのジョージ・ハリソンが、TOTOの残りの4人のメンバーと共にTOTOの様々な曲を演奏した。ツアー終了後、バンドは休憩を取り、メンバーは個々のプロジェクトを進めた。

1995-2001: 再始動~サイモン・フィリップス加入とボビー・キンボールの復帰

1995年、TOTOはサイモン・フィリップスとの最初のアルバムである『タンブ』を発表し、全世界で60万部を売り上げ、バンドの復活をアピールした。1998年、TOTOは1990年にボビー・キンボールと録音し、お蔵入りとなってしまった「ゴーインホーム」をシングルリリースし、更にデビュー20周年を記念して、これまでの未発表音源を集めた『TOTO XX』を発表した。その後バンドはTOTO XXのプロモーションツアーを行った。このツアーには元メンバーのボビー・キンボール、ジョセフ・ウイリアムズ、スティーブ・ポーカロも加わった。ツアー終了後、最終的にボビー・キンボールが14年ぶりにリードシンガーとしてバンドに復帰した。1999年、10枚目のスタジオアルバム『マインドフィールズ』をリリース、メインボーカルはボビー・キンボールが務めたが、元ボーカリスト、ジョセフ・ウィリアムスも「メラニー」「クルーエル」「マッド・アバウト・ユー」の3曲を提供し、アルバムに貢献した。

2002-2005: グレッグ・フィリンゲインズとデヴィッド・ペイチのセミリタイア

2002年、結成25周年を記念して『スルー・ザ・ルッキング・グラス』をリリース。ボブ・マーレイ、スティーリー・ダン、ビートルズ、エルトン・ジョン等、彼らが影響を受けてきたアーティスト達の曲をカバーしたカバーアルバムだったが、商業的には成功しなかった。またTOTOにとって初の全曲カバーアルバムに対し多くのファンが戸惑いをみせた為、バンドは新しいアルバムの制作の必要性を感じた。2003年6月からの「25周年記念ツアー」の終わりに近づいて、キーボードのデビッド・ぺイチは、病気の家族と過ごすためにツアーから外れることになった。そこでTOTOは、かつてマイケル・ジャクソンやクインシー・ジョーンズ周辺で活躍していたベテランキーボーディストのグレッグ・フィリンゲインズに声をかけ、ツアーの後半からペイチの代役を務めた。2004年と2005年を通して行われたワールドツアーにおいても、ペイチは時折しか参加せず、ほとんどの公演をフィリンゲインズが担当した。フィリンゲインズの素晴らしいパフォーマンスにより、バンドは彼に正式メンバーに加わるよう求め、彼は正式にTOTOに加入したと共に、ペイチはツアーから引退した。しかしペイチは引き続きTOTOの曲作りには参加し、プロデュースもしていた為、依然TOTOのメンバーのままだった。

2006-2008: マイク・ポーカロの病、そして解散

2006年初頭、TOTOは1999年以来のニューアルバム『フォーリング イン ビトゥイーン』を発表。キーボードはグレッグ・フィリンゲインズに代わっていたが、デヴィッド・ペイチは全面的に曲作りに参加、スティーブ・ポーカロも作品作りに加わる。ファーストシングル「ボトム・オブ・ユアー・ソウル」ではジョセフ・ウィリアムズもデュエットで参加した。2007年、未公開の病気を理由にマイク・ポーカロが離脱する。その後マイクの病気はALS(筋萎縮性側索硬化症)であると発表された。2008年6月5日、ルカザーは彼の公式ウェブサイトで「事実は本当です。TOTOはもうありません。もう出来ないし、50歳で自分で最後にやりたいことをスタートさせます」 とメッセージを投稿した。「ペイチが引退した時、それは本当に辛いことだった。なぜなら、ハイスクールから数えると35年も一緒にバンドをやってきた。マイクが病に倒れ、その現実だけが私に残った。ペイチがいない、ポーカロ三兄弟も誰一人としていない、どうやってこれをTOTOと呼ぶのか?正直に言おう、もう充分だ、これは休止ではない、すべて終わりだ。真面目な顔をしながら『ホールド・ザ・ライン』をプレイすることなど出来るはずもない」と述べ、TOTOはその長い歴史に終止符を打った。

2010: 再始動

2010年2月26日、ALSと診断されたマイク・ポーカロ救済の為にメンバーは再会を果たす。そして夏にヨーロッパツアーのためにバンドは再始動した。ラインナップは、デビッド・ぺイチ、スティーブ・ルカサー、スティーブ・ポーカロ、サイモン・フィリップス、ジョセフ・ウィリアムズ、そしてマイク・ポーカロの代わりには、凄腕ベーシスト、ネイザン・イーストが加わった。ネイザン・イーストはこれまでに、マイケル・ジャクソン、エリック・クラプトン、ベイビーフェイス、ダフト・パンク・ハービー・ハンコック・フィル・コリンズ等、そうそうたるアーティストのバックを歴任してきたベーシストである。また、ボブ・ジェームズ(p)ハービー・メイソン(dr)リー・リトナー(g)らが参加するスーパーフュージョンカルテット「フォープレイ」の創設メンバーでもある。ネイザン・イーストは2011年と2012年のツアーでもTOTOに参加したが、2014年からはエリック・クラプトンのバンドに同行した。

2013-2017年: ファーギー・フレデリクセン、そしてマイク・ポーカロの死

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