RCサクセション(RC Succession)とは【徹底解説まとめ】

RCサクセション(RC Succession)とは、1970年にデビューした日本のロック・バンド。ヴォーカリストの忌野清志郎とギタリストの仲井戸麗市を中心に、数々の名曲・名盤を残してきた。現在でも多くのミュージシャンが影響を受けたバンドとして名前を挙げている。1991年に活動休止状態に入り事実上の解散。2009年5月2日、忌野清志郎の死去により、RCサクセション復活の夢は永遠に絶たれた。

7月5日
4枚目のシングル「キミかわいいね」をリリース。

12月5日、セカンド・アルバム「楽しい夕に」をリリース。

12月20日
5枚目のシングル「三番目に大事なもの」をリリース。

1973年~1979年:暗黒時代

●1973年
「ぼくの好きな先生」のヒットはあったものの、ファンや世間に迎合することなく自分たちの追及する音楽だけをやっていくという姿勢を貫いたため、セールス的にはどんどんと落ち目になっていく。この時期の日本の音楽界はかぐや姫、ガロ、チューリップ、沢田研二、中村雅俊、山本コウタローとウィークエンドといったアーティストが台頭してきており、また宮史郎とぴんからトリオ、殿さまキングスといった演歌勢の大ヒットも続いていた。この当時RCがやっていた一種「マニアック」な音楽が受け入れられる土壌は殆どなかった。
収入は月3万円程度という極貧生活に突入、ガール・フレンドや友人に金を無心する日々を送り、当然ながら生活も荒んでくる。仕事も減り、事務所やスタッフからも愛想をつかれたような状態になっていく。
当時、清志郎と小林は渋谷でキャバレーの宣伝のためのサンドイッチマンを経験したりしていた。
また、デパートの屋上やビヤ・ガーデンでの演奏、いわゆる営業も行っており、ビヤ・ガーデンで演奏した際は、お客からゲタが飛んできたり、スキー場での営業は1日でクビになったりしていた。あくまでも自分たちのオリジナルにこだわったため、ビヤ・ガーデンやスキー場の雰囲気とはかけ離れた演奏だったためである。

6月
清志郎、小林、小林の実弟の小林キンスケ(一樹)と3人で「コーポ池谷」というアパートに転居。
この頃、奥田は九州でイベンターをしていた坂田喜策に目をつけて上京させている。のちにRCのマネージャーとなる坂田もコーポ池谷に同居することになる。
坂田喜策はのちに「株式会社ユーケープロジェクト」の子会社として2000年に設立された「株式会社ライトエージェント」の社長に就任。銀杏BOYZやLOST IN TIMEが在籍していた。2011年3月14日、あの東日本大震災の3日後に死去している。享年56歳。
また、清志郎はこの頃からエレキ・ギターを、小林はエレキ・ベースを使用し始めている。ドラムスにはホリプロのアルバイトの前村という人物が担当していた。

7月
アロー出版より初のムック本「RC・サクセションのすべて」が刊行される」。定価270円。「初期のRCサクセション」と「楽しい夕に」の楽譜が付いていた。評論家による解説は間違いだらけだったという。

ムック本「RC・サクセションのすべて」

8月
清志郎は、同じホリプロ所属だった井上陽水からの誘いを受けて、曲作りを一緒に行う。「待ちぼうけ」と「指輪をはめたい」をアレンジした「帰れない二人」を作り、同年12月1日に発売された井上陽水のアルバム「氷の世界」に収録された。この「氷の世界」は日本で初めて100万枚以上を売り上げたアルバムであり、清志郎も多額の印税を得ることになる(5~600万円と言われている)。この印税は楽器の購入に充てたり、遊戯に使ったりしてあっという間に使い果たしてしまったらしい。

「帰れない二人」の作成秘話を清志郎がラジオで語ったことがある。
清志郎が陽水のアパートに遊びにいった時のこと。陽水に「最近、どんな曲作ってるの?」と聞かれた清志郎は、ギターの弾き語りで「指輪をはめたい」を披露した。すると陽水が「いい曲だね。いい曲だけど絶対売れないよね、それ」と言い放ったという。じゃあ、ということでこの「指輪をはめたい」のコード進行をそのまま使用し、キーだけGからDに変更して曲を作り直し、1番の詞を陽水が、2番の詞を清志郎が担当することになった。アパートに帰った清志郎は2番の詞を作り、電話で陽水に伝えた。陽水は「いいねこの曲、いいね」といって、それが「氷の世界」に収録されたとのこと。
ちなみに「氷の世界」のジャケットで陽水が持っているギターは清志郎のギターである。

井上陽水&忌野清志郎「帰れない二人」

「氷の世界」ジャケット。陽水が弾いているのは清志郎のギター。

●1974年
3月
清志郎、破廉、日隈権座(ひぐまごんざ)の3人で福生の「ジャバマ・ハウス」に転居する。
日隈権座とは清志郎の中学・高校の同級生だった男。セカンド・アルバム「楽しい夕に」に収録されている「日隅くんの自転車のうしろに乗りなよ」の「日隅くん」のことである。また、同アルバムではミキサーとしてクレジットされている。1977年8月、彼は電車に飛び込み、自らの命を絶っている。RCの楽曲「君はそのうち死ぬだろう」は鬱状態になっていた彼を逆説的に励まそうとして清志郎が作った曲である。また、「まぼろし」は清志郎が彼のまぼろしを見たことを元に作られた楽曲である。ちなみに紛らわしいのだが、曲のタイトルでは「日隅」になっているが本名の漢字は「日隈」である。
ちなみに日隈権座と三浦友和も同級生であり、共に日野高校の柔道部だった。

この頃は自分たちでライヴなどのブッキングを行っていた。また破廉ケンチがギターが弾けなくなり始めるのもこの頃のこと。

夏頃
古井戸がパーソナリティをつとめていたラジオ番組「古井戸Night together」に3人で出演。「スローバラード」「ダーリン・ミシン」「マリコ」のデモ・テープが流される。また3人でスタジオ・ライヴが行われ、その模様も放送される。披露されたのは「僕の家の前の道を今朝も小学生が通ります」「ヒッピーに捧ぐ」「ファンからの贈り物」の3曲だった。

10月
久々のツアー「邪魔者RCサクセションコンサート」が始まる。日程は10月7日:浦和、10月21日:千葉、10月31日:横浜教育会館、11月1日:東京東條会館。
31日の横浜教育会館がキャンセルになったという情報が流れているが、実際にはコンサートは行われている。キャンセルになったのは21日の千葉である。

11月
東芝との契約が切れたのを機に、RCはポリドールに移籍する。これはホリプロ所属だったモップスの星勝と、当時ポリドールのディレクターだった多賀英典がRCのことをかっていたことから決まった移籍であった。移籍に伴い久々のレコーディングが始まる。これが「シングル・マン」である。ちなみに多賀英典はのちに独立。キティ・グループ創業者であり現在はキティ・フィルムの社長である。

ところがこの「シングル・マン」のレコーディングは一時中止の憂き目にあってしまう。当時のRCのマネージャーだった奥田義行が、ホリプロのドル箱スターだった井上陽水を連れて、ホリプロに造反する形で独立。自身のプロダクション会社「りぼん」を設立してしまう。当初はRCも奥田と行動を共にするとみられていたが、ホリプロとの契約がまだ1年残っており、ホリプロ側はRCと契約解除することを拒否。これは多分に奥田への見せしめ、あてつけの意味があったと想像できる。事実、RCはホリプロとの契約が切れるまで、月3万円の給料で拘束されるだけで、仕事はなにもさせてもらえない飼い殺し状態、いわゆる「干される」状態に陥ってしまう。

ホリプロからしてみれば、奥田は諸事情で一旦はホリプロを退所。その後奥田はRCを見つけ面倒を見るようになるが、金銭的に続けることが出来なくなり、泣きつく形でホリプロに出戻りをしてきている。それなのに今度は「氷の世界」でドル箱スターになった井上陽水を連れて独立してしまったのだがら、まさに造反、常識はずれの裏切り行為以外の何物でもなかった訳である。そのとばっちりをまともに受けてしまったのがRCであった。

そのような状態だったので、「シングル・マン」のレコーディングにも十分なサポートを与えられることはなかった。ホリプロからすれば、1年後に契約が切れればRCはホリプロから出ていくことが判っていたので、なんでそんなアーティストのレコーディングに手を貸す必要があるんだ、といったところだった。 RC側は仕方なくホリプロには秘密裡に中断していたレコーディングを続行している。

●1975年
この頃、清志郎と小林は「シングル・マン」のアレンジを担当した星勝の自宅に行き、「どうやったらアレンジができるんですか」と質問している。星勝の答えは「アレンジをしたいと強く思うことだ!」だったそうである。

3月
「シングル・マン」のレコーディング終了。ただしホリプロの契約が終了するまで発売は出来ず。

4月
仕事のない状態だったため、この時期、小林は東京芸術大学のベース科に入学し、そこでベースの理論とテクニックの勉強をし直している。また清志郎は、近所のピアノ教室に通うようになる。
破廉はこの頃から鬱状態になりはじめる。

10月頃
鬱状態でギターの弾けない破廉に代わり、忌野の日野高校の同級生だった阿部昇がギターを担当し始める。また、サポート・メンバーとしてドラムスにウータン鈴木(ワンダフル鈴木)、キーボードに佐山雅弘(セクシー佐山)が参加。古井戸の仲井戸麗市もライブなどに時々参加し始める。

●1976年
ようやくホリプロとの契約が切れ、奥田が設立した「りぼん」に移籍。バンドもドラムスのウータン鈴木、キーボードの佐山雅弘という体制を維持しており、エレキ化が徐々にだが確実に進む。その反面、破廉ケンチはエレキ化にどうしても馴染むことができず、鬱状態は深刻になってくる。結局、彼は1年間の休養をもらうことになる。

1月21日
シングル「スローバラード」をリリース。

4月5日、7日
矢沢永吉のコンサートに前座で出演。清志郎は「矢沢B吉でーす。永ちゃん今楽屋でクソしてるからボクらが代わりにやります」と言って矢沢ファンたちの大ブーイングを浴びる。

4月21日
アルバム「シングル・マン」をリリース。やっと発売されたのだが1年と経たずに廃盤になってしまう。

9月7日~12月17日
この期間、井上陽水の前座として、全国を回っている。

10月11日
シングル「わかってもらえるさ」をリリース。クレジットに破廉ケンチの名前はあるが、彼は参加はしておらず、ギターはすべて清志郎が弾いている。
RCがまさにどん底の状態にあった時期で、殆ど売れなかったという。
また、この頃ポリドールからキティ・レコードに移籍、「わかってもらえるさ」はキティからの第一弾シングルであった。

RCサクセション「わかってもらえるさ」
酷い状態の映像だけれど、貴重な映像でもある。
詞の内容がとても示唆的。

11月
破廉の鬱状態はひどくなる一方であり、ついに彼は福生の「ジャバマ・ハウス」から国立に戻ってしまう。同居していた日隈も国立に戻るが、この頃から彼もおかしくなり始める。清志郎は国立のたまらん坂にあった日下部荘で一人暮らしを始める。のちの楽曲「多摩蘭坂」のモデルになったのがこのたまらん坂である。

●1977年
4月4日
渋谷ジァンジァンで行われたライヴに、カルメン・マキ & OZのギタリストである春日博文が訪ねてきて、カルメン・マキ & OZのライヴのサポート・バンドを依頼される。

5月21日
日比谷野外音楽堂で行われたカルメン・マキ & OZの前座に出演。

7月
破廉ケンチ脱退。1年間の休養を明けたが、結局ギターはまったく弾けなくなっていた。

8月
清志郎の中学・高校の同級生でもあり、福生の「ジャバマ・ハウス」で共同生活もしていた日隈権座が鉄道自殺。

9月
「久保田真琴と夕焼け楽団」に在籍していたドラマーの土井耕太郎が1年間の契約でRCに参加。

●1978年
1月18日
ライヴ・ハウス「屋根裏」のライブに春日博文が酔っぱらった状態で飛び入り参加。スローバラードなどを共演。当初はあまり春日のこをとよく思っていなかったRCのメンバーも、これを境に仲良くなりだす。特に清志郎は、春日のステージングのうまさに感動し、RCへの参加をその場で要請している。春日は「ドラマーを変更すること」を条件に、ギタリストとして正式にRCに参加する。カルメン・マキ & OZはすでに解散していた。

2月10日
ライヴ・ハウス「荻窪ロフト」において新体制での初ライヴ。メンバーは清志郎、小林、春日、土井。

3月17日
都立日野高等学校の同級生だった阿部昇のライブに、清志郎がゲストとして参加。そのライヴでドラムを叩いていたのが新井田耕造。ドラマーを探していた清志郎は新井田に目を付ける。ちなみに同じライヴでキーボードを弾いていたのが柴田義也だった。

4月
清志郎から正式参加を要請された新井田耕造が、土井に代わってドラマーとしてRCに参加する。

5月
春日の提案により、清志郎は歌に専念することになる。
この頃から古井戸と掛け持ちであったが、仲井戸が本格的にRCに参加し始める。

7月
清志郎、髪を切りパンクヘアーにする。

9月17日
清志郎、「屋根裏」で初めて化粧をする。
清志郎はメイクをすることについてこう語っている。
「僕は自分の容貌に自信がなかったから。特にうたってる姿とかさ。すぐ赤くなっちゃうんだ、顔が。シャウトすると。それを隠すためにやってたような部分も多いんですよ」
「あと、当時の事務所の女の子で矢田さんていう人がいて。ミック・ジャガーのファンでさ、清志郎くんも化粧でもしてパーンといけばいいのにとかよく言われてたんだよね。そういうのもあって」

10月
清志郎、「屋根裏」の楽屋でオーティス・レディングの1967年モンタレー・ポップ・フェスティバルでのライヴ・ビデオを観る。オーティスが観客に向かって叫んだ「We all love each other, don't we? Am I right?... Let me hear you say YEAH!」 の日本語スーパーが「愛しあってるかい?」 だったことからこのフレーズをライヴで引用するようになる。

Otis Redding「I've Been Loving You Too Long」
1967年6月17日、モンタレー・ポップ・フェスティバル「夜の部」に登場したオーティス・レディング。
冒頭のナレーションで「We all love each other, don't we? Am I right?... Let me hear you say YEAH!」というセリフを聴くことができる。
オーティスは清志郎が最も敬愛したシンガーである。

11月
この頃、春日は多忙になり、RCのライヴに出演出来ないことが多くなる。

12月28日
下北沢ロフトにおいて、新井田耕造がドラムスを担当する「ZONE」のライヴにサポート出演していたクロスウィンドの小川銀次を、清志郎と仲井戸がRCのサポートに誘う。春日の誘いもあり、小川は自らのバンド「CROSSWIND」と掛け持ちする形で、RCに参加する。入れ替わるように春日はカルメン・マキのソロ・アルバムに参加するため、RCを脱退して渡米している。

●1979年
この年、音楽評論家の吉見佑子が中心となって、アルバム「シングル・マン」の再発売を促すための「シングル・マン再発実行委員会」が発足される。この時期、RCはフォーク・ユニットからロックバンドに変身し、ライブハウスなどで話題となり始めていた。そんな状況の中、RCの新譜を待ちかねていた吉見佑子が「新譜が出せないのなら、廃盤となってしまった『シングル・マン』をファンの元へ」というポリシーの元に、彼女自身が事務局長に就任し、ポリドールに再発売の働きかけを行ったのだ。
この運動は、新聞や雑誌などでも取り上げられて、社会的な注目を集めた。その結果、「自主制作限定300枚買い上げ」という形で、異例の再発売を実現させている。当初は再発売実行委員会のメンバーが関わる、国立の「レコード・プラント」と青山の「パイドパイパー・ハウス」の2店のみでの販売だったが、売れ行きが好調で、計1,500枚を売り上げ、再プレスが追いつかない状況となってしまった。そしてついに翌1980年には「シングル・マン」は正式に再発売されることとなる。

6月25日
東京御茶ノ水・日仏会館において、約5年ぶりになるホールでのワンマンコンサートを行う。

7月21日
シングル「ステップ!」をリリース。

8月4日
千葉県マザー牧場でのライヴが予定されていたが、近くにある神野寺(じんやじ)で飼われていた虎2頭が逃げ出したため中止に。清志郎は警察に「虎を殺すな!」と電話したが、残念ながら2頭とも射殺されてしまった。

9月15日
「屋根裏」において、先日射殺されてしまった2頭の虎のために「虎追悼コンサート」を行う。

11月16日
霞が関にあった久保講堂で「古井戸解散コンサート」が行われる。そのステージにおいて、仲井戸麗市のRC参加が発表される。清志郎と小林はステージにあがり、「上を向いて歩こう」を共演している。

12月27日
「ジョニー、ルイス & チャー」の前座として、初めて日本武道館のステージに立つ。

1980年~1984年:ロック界の頂点へ

●1980年
この年、忌野清志郎、小林和生、仲井戸麗市、新井田耕造、そして柴田義也というRCサクセション最強の布陣が揃うことになる。フォーク・トリオ・ユニットから、ロック・バンドに大転身したRCは、ライヴを中心にどんどんと人気を集めていくことになる。

1月21日
シングル「雨あがりの夜空に」をリリース。

1月19日~22日
「雨あがりの夜空に」発売記念として渋谷のライブハウス「屋根裏」で4日連続のライヴを行い、のべ800人の観客を動員、同ライブハウスの動員記録を打ち立てる。

2月28日
渋谷公会堂でシーナ&ロケッツ、バウワウとのジョイントコンサートを行い、約2000人の観客動員を達成する。

4月5日
久保講堂において、「RHAPSODY」のライブ・レコーディングを行う。同時にビデオ撮影も行われる。ライヴ音源は同年6月5日発売のアルバム「RHAPSODY」として、映像は1994年6月25日にビデオ「RHAPSODY THE VIDEO」として発売される。この日のライヴにはその後にRCのサポート・メンバーとして定着する梅津和時(サックス)が初めて参加している。また小川銀次はこの日のライブを最後にRCを脱退している。

RCサクセション「 雨上がりの夜空に~スローバラード」
小川銀次在籍時のRCサクセション

5月
原田真二のツアーを終えた柴田義也(Gee2wo)が正式にRCに参加。これにより、RCサクセションの最強の布陣が揃ったことになる。

5月21日
シングル「ボスしけてるぜ」をリリース。

6月5日
ライブ・アルバム「RHAPSODY」をリリース。「シングル・マン」以来4年ぶり4枚目のアルバムとなる。

7月20日、社会現象として朝日新聞の社説にRCが取り上げられる。「RCのコンサートへ行けば、今日のわが国のあらゆるタイプの若者像を瞬時にして知ることができる」と評される。

8月1日
アルバム「シングル・マン」が再発売される。
音楽評論家・吉見佑子が中心となった「シングル・マン再発売実行委員会」の運動が実を結び、この日めでたく正式にポリドールより再発売された。再発売された際のLPレコードの帯には、ポリドールからの謝罪文が以下のように掲載されていた。

「シングル・マン再発にあたって…このアルバム「シングル・マン」は、4年前に発売されあえなく廃盤になっていたものです。しかし、このアルバムを今一度世に出したいと吉見佑子さん、「パイドパイパー・ハウス」岩永正敏さん、「ART VIVANT」芦野公昭さん、堀田丸恵さんその他数多くの方々のご協力により「再発実行委員会」がつくられ、昨年末より自主限定発売がされていました。プレスされるたびに売り切れとなり、手に入れられない方や、東京以外の方から苦情が相ついでいましたが、このたびどこでも手に入れられるよう再発売できるようになりました。ひとえにRCサクセションを支持して下さるファンの皆様、そして再発実行委員会に直接、間接にご支援いただいた皆様の熱意のおかげと深く感謝しています。レコード会社としまして、こんな素晴らしいレコードを廃盤にしていたことを恥じ入り、反省している次第です。」

10月28日
シングル「トランジスタラジオ」をリリース。

12月5日
アルバム「PLEASE」をリリース。

●1981年
ライヴ・バンドとしての本領を発揮、この年だけで100本近いコンサートを行う。
またこの年、清志郎は事務所の社員旅行でロス・アンジェルスへ。初の海外旅行だった。

2月27日
静岡市民文化会館でライヴ。この日のステージ上で、ビニ本を広げて観客に見せるといったパフォーマンスを行ったため、会場関係者や教育委員会などから抗議される。

5月30日~31日
日比谷野外音楽堂でワンマンライブ。

6月1日
初のベストアルバム「EPLP」をリリース。

11月21日
アルバム「BLUE」をリリース。

12月24日
日本武道館で初のクリスマス・コンサートを開催。これ以降、1990年の解散まで10年間連続で武道館クリスマスコンサートを行う。

●1982年
2月14日
清志郎と坂本龍一(当時イエロー・マジック・オーケストラ)の2人によるシングル「い・け・な・いルージュマジック」がリリースされる。この曲は資生堂のCMソングであり、テレビで頻繁に流されたことによって、忌野清志郎、及びRCサクセションの知名度は更にアップした。ミュージック・ビデオの中では、清志郎・坂本ともにどぎつい化粧を施しており、男性同士でキスをするシーンなどもあり、多いに世間の話題となった。

忌野清志郎+坂本龍一「い・け・な・いルージュマジック」

6月23日
シングル「サマーツアー」をリリース。

8月7日~8日
チャック・ベリー、そしてサム・ムーアとのジョイント・ライヴ「The Day of R&B」を横浜スタジアム、及び大阪住之江競艇場において開催する。この日のライヴの模様は同年12月10日に発売されたライブ・アルバム「The Day of R&B」で聴くことができる。

9月
キティ・レコードから、新しく設立されたロンドン・レコードに移籍し、自らのレーベル「BARCA(ばーか)」を設立する。

10月25日
アルバム「BEAT POPS」をリリース。ロンドン・レコード及び自らのレーベル「BARCA」からの初の作品。

11月25日
DANGER(清志郎+どくとる梅津バンド)によるアルバム「DANGER」をリリース。

12月10日
ライブアルバム「The Day of R&B」をリリース。

12月15日
シングル「つ・き・あ・い・た・い」をリリース。

●1983年
この年、清志郎は肝臓を壊す。暗黒時代の不摂生な生活や、ここ数年の激務、ストレスなどが原因。あまりにも体調が悪いので1泊2日の人間ドックに入る。検査の結果は最悪で、「君の肝臓はもう治らない」と宣言されてしまう。

3月7日~4月28日
アルバム「OK」のレコーディングのため、メンバー全員でハワイへ。これは事務所が強引に推し進めたレコーディングで、1曲も用意できていないままにハワイへ行かされた清志郎は、一人部屋で曲作りを行う羽目になる。このことが、事務所への不信感となり、後の独立騒動へとつながる一因になる。

5月
「RCサクセション写真集」(撮影・おおくぼひさこ)(ロッキンオン社)発売。おおくぼひさこは仲井戸の奥さんである。

「RCサクセション写真集」(撮影・おおくぼひさこ)

6月1日
シングル「Oh!Baby」をリリース。

7月5日
アルバム「OK」をリリース。

11月7日
シングル「ベイビー!逃げるんだ。」をリリース。三菱自動車とのタイアップであり、CMには清志郎本人が出演した。

12月
忌野清志郎詩集「エリーゼのために」(弥生書房)発売。

忌野清志郎詩集「エリーゼのために」

12月5日
渋谷公会堂でのライブの模様を収録したアルバム「THE KING OF LIVE」をリリース。これは、清志郎が慢性肝炎のためにツアーができなかった代わりとして制作された作品である。

●1984年
清志郎の肝臓疾患は、医者から見放されるくらいに悪い状態だったが、自ら東洋医学を勉強し、実践することで全快させることに成功する。

この年、所属していたロンドン・レコードが倒産、ポリドール・レコードに吸収される。これにともないRCは東芝EMIへ移籍する。

4月13日
清志郎、事務所独立のことで奥田社長と会談。バンド側は完全な独立を希望するが、事務所側は原盤制作だけでも残せ、と譲歩を求める。よって会談は決裂する。奥田社長は「今度は俺がお前らを干してやる!」と清志郎に暴言を吐き、清志郎も「冗談じゃねー!」とタンカを切って飛び出した。清志郎には過去にホリプロから干された経験があり、その時のことを思い出して悔しさと怒りで涙が込み上げてきたという。

7月21日
シングル「不思議」をリリース。東芝EMI移籍第一弾となる

7月21日
アルバム「EPLP-2」が無許可で発売されてしまった。
9月21日
アルバム「The LiVE!」が無許可で発売されてしまった。
12月21日
アルバム「MIX & MIX-ER」が無許可で発売されてしまった。

これら「EPLP-2」「The LiVE!」「MIX & MIX-ER」はメンバーの承諾なし、というよりも全く知らない間に勝手に出されてしまった作品。事務所がアーティストの承認なしに原盤をNewレコードに提供したらしい。よってここでは「『EPLP-2』をリリース」という書き方はしない。
発売元は「Newsレコード」。1980年3月3日に、松山千春、清須邦義、加川良の3名により設立されたレコード会社である。
このようにアーティスト非公認の作品を勝手に出されてしまうという原盤管理のずさんな状況も、事務所独立の一因となる。
RCはNewsレコードそのものに嫌悪感を持っていたようで、このことに対して激怒。当時、Newsレコードの幹部であった、松山千春や山本コータローなどをステージの上で痛烈に批判、ファンに対しては「アーティスト非公認盤を絶対に買わないように」と訴えかけた。なお、「The LiVE!」はカセット・テープのみで出された。

11月23日
アルバム「FEEL SO BAD」をリリース。
奥田社長と事務所「りぼん」を公然と批判している楽曲が収録されており、訴訟沙汰になる。

yamada3desu
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@yamada3desu

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