目次

  1. 思わぬ所で淀川さんと再会して
  2. 複雑な生い立ちと映画漬けの少年時代
  3. 映画配給会社時代とチャップリンとの出会い
  4. 「駅馬車」との出会い
  5. 終戦後〜映画解説・評論家としての道へ
  6. 「日曜洋画劇場」の顔となって
  7. 淀川さんの3つのモットー
  8. 最後に 淀川さんにまつわる個人的な思い出

思わぬ所で淀川さんと再会して

動画配信サイト「Hulu」のCMに、CGで現れたこの方。誰だかご存知でしょうか。

「あぁ、もちろん知ってるよ!」という方は、ある程度の年齢の方ではないかと思います(←失礼)
もしかしたら若い方でも、映画が大好きで評論を読むのも好きという方なら、どこかで一度は耳にした名前、見たことのある顔かもしれませんね。

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この方が、淀川長治さんです。1919年(明治24年)神戸に生まれ、1998年(平成10年)89歳で亡くなりました。
その一生を映画に捧げたと言っても過言ではない生き様から、「映画の伝道師」と呼ばれることもあります。
また亡くなる前日まで作品解説をしていた「日曜洋画劇場」での恒例のお別れの挨拶「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」のフレーズから、「サヨナラオジサン」とも呼ばれて老若男女から親しまれました。

複雑な生い立ちと映画漬けの少年時代

映画にまだ音声がついていなかった「サイレント映画」の時代から、両親や姉達とともに映画館(当時は「小屋」とも呼ばれていた)に入り浸り、気がつけば毎日が映画一色だったといいます。
神戸の芸者置屋で生まれた淀川さんの生い立ちは複雑で、それが彼の結婚観や女性観に影を落としたとも言われています。

「ずっと映画とともに生きたい。そのためにはその他のすべてのことを犠牲にしてもいい」と神社で願掛けをしたというエピソードには、映画にかける情熱の凄まじさを感じさせられます。

映画配給会社時代とチャップリンとの出会い

学生時代にずっと映画の感想を投稿していた『映画世界』(南部圭之助編集長)で、編集者として活動した後、しばらく神戸に戻り姉が経営する輸入美術品店で勤務。
しかし映画に対する情熱が冷めるはずもなく、1933年(昭和8年)にユナイテッド・アーティスツの大阪支社に入社します。

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ここで1936年(昭和11年)に来日したチャーリー・チャップリンとの会談を成功させ、それ以降、チャップリン評論に関しては右に出るものがいないとまで言われるようになります。

「駅馬車」との出会い

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1940年(昭和15年)には、ジョン・フォード監督の「駅馬車(STAGECOACH)と出会い、その素晴らしさに感激。
邦題が「駅馬車」になったのは、当初決定していた邦題「地獄馬車」に淀川さんが猛反対したからだと言われています。
試写、予告編の制作、ポスター制作などに淀川さんは全精力をつぎ込み、この映画を宣伝しました。
その結果「駅馬車」は大ヒットし、現在に至るまで西部劇の名作として記憶されることとなったのです。

終戦後〜映画解説・評論家としての道へ

終戦後、淀川さんはアメリカ映画の配給会社「セントラル映画社」に勤務します。
その後1947年(昭和22年)には、「映画の友」に入社。
翌年には映画好きな若者達を集め「東京映画友の会」を結成します。ここで淀川さんは1993年(平成5年)まで映画の魅力について語り続けました。

「日曜洋画劇場」の顔となって

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文字通り淀川さんの「ライフワーク」となったのが、TV朝日系列で放映されていた「日曜洋画劇場」での作品解説でした。
ここで、あの有名な「サヨナラ節」と片手をニギニギする仕草が生まれたのです。

TVで作品を解説する時の淀川さんのモットーは「どんな映画にも必ず良い部分、褒めるべき部分がある」でした。
不特定多数の人が見るTVという媒体を通じた批評では、どんな人にも分かりやすく映画の魅力を伝えることが自分の使命と淀川さんは考えていたようです。

これは淀川さんが亡くなる前日、「日曜洋画劇場」で放送予定の「ラストマン・スタンディング」(ブルース・ウィリス主演)の解説をした時の模様です。
お元気な頃と比べると明らかにかなり痩せられていますが、とてもこの翌日に亡くなる人だとは思えない程の気迫が感じられ、最後の最後まで淀川さんは映画の申し子だったんだな、と感じさせられます。

淀川さんの3つのモットー

「他人歓迎」
「苦労来い!」
「私はいまだかつて嫌いな人に会った事がない。」

この3つは淀川さんのよく知られたモットーです。

しかし実際はかなり人の好き嫌いが激しかったことを晩年、お弟子さんたちに打ち明けられています。そのあたりのことは、TVでの作品解説の時の口当たりの柔らかさと対照的に、映画好きだけが集まる場での、とても厳しい映画批評ぶりを考えればそう不思議ではないなぁと個人的には感じます。それが却ってとても人間的に感じるのは、私が単に淀川さんのファンだったからかもしれませんが。

最後に 淀川さんにまつわる個人的な思い出

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最後に個人的な体験をお話させていただきたいと思います。

筆者は1990年2月新宿紀伊国屋ホールで行われた、淀川さんと杉浦孝昭(おすぎ)さん共著による「おしゃべりな映画館」出版記念講演を拝聴しました。

前述したように、TVでのニコニコとした柔らかな物腰とは全く正反対の激しさで、「あんな作品、まったくくだらないですよ。映画の公式を全く無視してる」などと、舌鋒鋭く様々な映画作品を斬りまくっておられるのをそこで目撃しました。
これには毒舌で当時から有名だったおすぎさんもたじたじとなるくらい。
本当の映画好きだけが集まる場であるからこその厳しさだと感じましたね。

講演会の後、購入した本の見開きにサインをしていただきましたが、淀川さんはしっかりと私の目を見て「来てくれてありがとう」と言って下さいました。

その目の輝きがまるで若者のようだったこと、握手した時の手の柔らかさは、未だに忘れられません。
映画が大好きだった私にとって淀川さんは神様のような存在でした。
その人と握手ができたこと、そしてちょっとだけでも言葉を交わせた思い出は、今でも私の大切な宝物です。