目次

  1. Bob Marley - One Love
  2. エピソード
  3. ラスタファリズム
  4. 伝説のコンサート

Bob Marley - One Love

誰もが知る超名曲 One Love

エピソード

1945年2月6日、ボブ・マーリィ(本名ロバート・ネスタ・マーリィ)は ジャマイカの北の海岸に位置するセント・アン教区、ナイン・マイルズで、白人のイギリス海軍大尉の父とジャマイカ人の母との間に生まれる。当時、61歳であった父と18歳の母は、ボブの誕生後に別れ、ボブは母親とナイン・マイルズで幼少期を過ごした。父はボブが生まれた後、すぐに行方をくらました。

彼は混血児だ。ゆえに白人社会からも黒人社会からもヨソ者扱いされ、少年期に深い孤独感を
味わった。これは、後年彼が世界中の人々に肌の色の違いを超え、同じ人類として生きようと訴え続ける強い動機となった。

「夫(ボブ)は少年時代から二つの世界に引き裂かれて悩んでいた。だから自分のルーツを人類の起源の地と言えるアフリカに求めて、宗教や人種を超えたメッセージを歌に込めたの」(リタ・マーリィ)

10歳のときに父が死去。父からの経済的な援助がなくなり、一家は職を求めてキングストン郊外のスラムに移り住む。周囲の黒人とは異なる容姿から「ドイツ人」というアダ名がつき、それを嫌って靴墨で顔を塗ることもあった。ボブは、この地でバニー・ウェイラーと音楽活動を開始し、音楽に専念するため14歳で学校を中退する。

17歳でオーディションに合格し、ソロ・ミュージシャンとしてデビュー。18歳からトレンチタウンに在住し、音楽仲間は6人になりザ・ウェイラーズを結成。最初のデビュー・シングルがヒットするが印税をほぼ全額レコード会社と音楽プロデューサーに持っていかれる。ジャマイカの音楽界はラジオが中心で、ミュージシャンは欧米のバンドのようにライブで収入を得る道がなかった。
ボブたちは全国的に著名でありながら経済的には常に困窮しており、仕事がなく犯罪へと走る
都市部の若者達と社会への不満を共有していた。※この当時、ボブは路上生活をしている。

ラスタファリズム

19才の頃、アフリカ回帰をうたう宗教“ラスタファリズム”に目覚める。ラスタ教の信者(ラスタマン)はいつの日か人類発祥の地である、母なる大地アフリカに帰ることを夢見ている。彼らが髪を切らずにドレッド・ヘアという縄のれんのような髪型をしているのは、自分の肉体に刃物を当ててはならないという戒律があるからだ。だからドレッド・ヘアは、ファッションではなくラスタ教信者の証なのだ。
ボブの歌の中では、私とあなたの事を“ I & I ”と表現している。ラスタマンの表現には、”You”というものがないからだ。自分と他者を分けず、人類は皆“ I ”というわけだ。

またラスタ・カラーといわれる赤、黄、緑にもそれぞれ意味がある。赤は燃える血を、黄は輝く太陽を、緑は豊かな大地を表し、ここでもアフリカ回帰が強くイメージされている。物質主義を否定し、全員が厳格なベジタリアンだ。
※レゲエ・ミュージシャンの誰もが頭をドレッドにするわけではない。彼らの中のラスタ教徒だけが、ドレッドにするのだ。日本ではドレッドの若者が“ハンバーガー”を食いながら街を歩く光景をよく見るが、あれは本物のラスタマンにしてみれば教義(菜食主義)の冒涜に等しい行為で、見つかれば半殺しどころか八分殺しにされても文句は言えまい。

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ラスタカラーの三色。赤、黄、緑

21才の頃、ボブは音楽活動をしつつ溶接工の仕事につき、恋人のリタと結婚する。
この頃(1960年代後半)からジャマイカは政情がひどく不安定な状況に陥ってゆく。右派と左派の政治抗争はそれぞれの党の支持者同士の武力抗争に発展し、この争いではマシンガンどころか戦車まで登場した。憎しみの連鎖が次々と暴動を産み出し、多くの人が殺され、首都は世界で最も危険な区域となった。キングストンは悲惨な暴力と無秩序の町へと変貌してしまったのだ。

「ジャマイカで政治的な暴動が起きると、いつも若者同士が戦ってる。政治家の為にね。僕はムカついてくる。本当に気分が悪くなる。若者は飢えと失業から戦う。若者を生活苦に追い込んでるのは政治家なのに、ヤツらの為に若者同士が殺し合うなんて、僕は本当に胸がムカつく」(ボブ)

30歳のときに、エリック・クラプトンがカバーしたボブの曲「アイ・ショット・ザ・シェリフ」が全米1位を獲得。ボブ・マーリーの名は一気に世界に広まる。同年、アルバム『ナッティ・ドレッド』を発表。英国や米国のロック雑誌でも絶賛される。翌年にシングル発表した「ノー・ウーマン・ノー・クライ」も世界的大ヒットを記録。ボブは、第三世界を代表するスーパースターを呼ばれるようになる。

1976年、ジャマイカの政治的緊張が頂点に達する。ボブは、平和を取り戻すきっかけを作ろうと無料の「スマイル・ジャマイカ・コンサート」を計画。それにより二大政党の対立抗争に巻き込まれ、12月3日に狙撃されて重傷を負う。負傷したまま5日の無料コンサートに出演し、翌朝バハマへ亡命した。

伝説のコンサート

1978年、ボブはジャマイカへ帰国した…胸中にある計画を持って。彼は帰国直後に
音楽ファンの間で今も伝説となっている、《ワン・ラブ・ピース・コンサート》に出演した。
コンサートは非常に大規模で、一日中キングストンは人であふれた。外国の取材班も多数集まり、客席の前列一帯には、首相、国会議員、判事らが招待された。ボブの計画とはこのステージ上で、ずっと血みどろの抗争を続けていた与党と野党の両党首を握手させることだった!

ジーンズに麻の服を着たボブがステージに上がったのは、真夜中ごろだった。久々のボブの登場に、聴衆は熱狂の渦に陥った。
歌のクライマックスでボブは両党首に
「どうかステージに上がり皆の前で握手して欲しい!」
とマイクを通して呼びかけた。当初面食らっていた両党首だが、大勢の観客が注視していることもあり、側近たちにうながされてしぶしぶとステージに上がっていった。
2人の党首がボブの横に立ち握手をすると、ボブは2人の手を取り、観衆全員に見えるように高々と持ち上げたのだった。ボブは祈るように目を閉じていた…。
そして、コンサートは名曲『ワン・ラブ』で幕を閉じた。

その貴重な映像がこちら。

古今東西、多くのミュージシャンが世界を変革しようと社会に働きかけてきたが、これは目に見えて音楽が具体的に政治を動かした決定的な事件となった!
この出来事の2ヵ月後、彼は生涯の素晴らしい思い出となる体験をする。彼はアフリカ諸国の国連代表派遣団から、第三世界平和勲章を授与されたんだ!