目次

  1. スピッツとは
  2. ブルーハーツに憧れ続けたインディーズ時代
  3. メジャーデビューからの苦労
  4. 「ロビンソン」による大ヒット
  5. まとめ

スピッツとは

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ボーカルギター担当、草野マサムネ
ギター担当、三輪テツヤ
ベース担当、田村昭浩
ドラム担当、崎山龍男
上記のメンバー4人で結成される日本のロックバンドである。

ブルーハーツに憧れ続けたインディーズ時代

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デビュー以前のスピッツは当時大人気だった「ブルーハーツ」の影響を受け、パンクな路線で活動していた。

ライブパフォーマンスも客を煽ったりハンドマイクで暴れるなどしていたが、
ライブハウスのブッキングマネージャーから「ブルーハーツの二番煎じでは先は望めない」と指摘されアコースティックギターを持つようになる。
スピッツがパンクロックから転向するきっかけとなった曲「恋のうた」もこの時期に作られた。

メジャーデビューからの苦労

1991年3月にデビューシングル『ヒバリのこころ』、1stアルバム『スピッツ』同時発売でポリドールよりメジャーデビューする。

翌月にはラジオ番組で1stアルバム「スピッツ」の楽曲がヘビーローテーションに起用、音楽専門誌ROCKIN'ON JAPANでは90年代型ニュー・ウェーブと紹介されカラーで扱われる等したもののCDはオリコンチャートに入らず。
同年11月には2ndアルバム「名前をつけてやる」、1992年4月には3rdアルバム「惑星のかけら」をリリースするが、CDを出す度に売上は下回っていた。

このままでは大好きな音楽活動が続けられなくなってしまうという想いと、支えてくれるスタッフの為にも売れることを意識し、1993年4月から外部プロデューサーに笹路正徳を迎えレコーディングを始める。
同年9月にリリースした4thアルバム『Crispy!』はメンバーの意向で売れ線を狙った楽曲が多く取り入れられていたが、結果的に売上をのばすことは出来なかった。
これにより草野は「自分の曲や声は一般受けしない」と自信を失いがちになる。

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93年発売のアルバム。全作の三作品+ミニアルバムでやりたい事をやりつくしたメンバーは、次の目標を「売れる事」に視点をおき、製作したアルバム。
結果、今までの方向と大きく変わってしまい、これを機にスピッツに振り向いてくれたファンは勿論いても、今までのファンが離れてしまった。変わりすぎてしまったようだ。
「スピッツ、なんで変わったの?」などと言った手紙が大量に草野の元へ届き、オリコンに入ることもなく、草野はひどく落ち込んだそう。
その事を今では笑い話にしているが、当時は本当に辛かったそうです。
バラエティにとんだ、いろんな曲が収録されている。

出典: ID3.FM-P.JP

「ロビンソン」による大ヒット

それでも売れることを諦めないスピッツは1994年年4月と7月にシングル「空も飛べるはず」「青い車」をリリース。
当初はまだ売上7万枚程度であったが知名度をあげるには十分なものとなった。
この時期からラジオで楽曲が多く使用されたり、TV出演などのメディア露出が増え徐々に知名度を上げていく。

そして1995年4月、11枚目のシングルとなる「ロビンソン」をリリースする。
バンドとしてはオリコンチャート上における初めてのトップ10ヒットとなり、売上は162万枚のロングセラーとなる。

シングルの制作中、草野は「ロビンソン」を"いつものスピッツの、地味な曲"と感じ、バンドの他のメンバーや共同プロデューサーの笹路正徳にもそう話していたという。[6]フジテレビ系列で放送されていた夕方のバラエティ番組のテーマ曲として発売時に1か月オンエアされたことを除けば、この楽曲のための表立ったプロモーション活動はほとんど行われなかった。それにもかかわらず、この楽曲は1995年の初夏にスリーパー・ヒットを記録することとなる。この楽曲が思いがけず大衆的な支持を集めたことについて、草野は2007年に出版されたグループの回顧録『旅の途中』の中で「なぜあの曲がこんなに長く売れているのか、と当時抱いた疑問の答えはいまでもわからない」と明かしている。

出典: JA.WIKIPEDIA.ORG

時代の流れにのったスピッツはそこから「涙がキラリ☆」「チェリー」など多くのヒット曲を生み出し、自分たちの地位を確立した。

まとめ

CD不況となった今でも衰えることを知らないスピッツ。
デビュー24周年を迎えても多くの人から愛され続けるのは沢山の苦労、努力の積み重ねがあったからなんですね。